・・・ 僕等は東家の横を曲り、次手にO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。僕は秦皮樹のステッキを挙げ、O君にちょっと合図をした。「そっちから上って下・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・木の芽を誘うには早すぎるが、空気は、湿気を含んで、どことなく暖い。二三ヶ所で問うて、漸く、見つけた家は、人通りの少ない横町にあった。が、想像したほど、閑静な住居でもないらしい。昔通りのくぐり門をはいって、幅の狭い御影石の石だたみを、玄関の前・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・ 袂に近い菜の花に、白い蝶が来て誘う。 ああ、いや、白い蛇であろう。 その桃に向って、行きざまに、ふと見ると、墓地の上に、妙見宮の棟の見ゆる山へ続く森の裏は、山際から崕上を彩って――はじめて知った――一面の桜である。……人は知る・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・雛芥子が散って実になるまで、風が誘うを視めているのだ。色には、恋には、情には、その咲く花の二人を除けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人というものはな、淵に棲むぬし、峰にすむ主人と同じで、これが暴風雨よ、旋風だ。一溜・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 村の或家さ瞽女がとまったから聴きにゆかないか、祭文がきたから聴きに行こうのと近所の女共が誘うても、民子は何とか断りを云うて決して家を出ない。隣村の祭で花火や飾物があるからとの事で、例の向うのお浜や隣のお仙等が大騒ぎして見にゆくというに・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ おとよはそっと枝折戸に鍵をさし、物の陰を縫うてその恋人を用意の位置に誘うた。 おとよは省作に別れてちょうど三月になる。三月の間は長いとも短いともいえる、悲しく苦しく不安の思いで過ごさば、わずか百日に足らぬ月日も随分長かった思いがし・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・別に申し合わせたわけでもなかったが、時々は向うから誘うこともあった。気がつかずにいたが、毎度風呂の中で出くわす男で、石鹸を女湯の方から貰って使うのがあって、僕はいつも厭な、にやけた奴だと思っていた。それが一度向うからあまり女らしくもない手が・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・三日に揚げずに来るのに毎次でも下宿の不味いものでもあるまいと、何処かへ食べに行かないかと誘うと、鳥は浜町の筑紫でなけりゃア喰えんの、天麩羅は横山町の丸新でなけりゃア駄目だのと、ツイ近所で間に合わすという事が出来なかった。家の惣菜なら不味くて・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・己ばかりはけっして眠くなったとて、我慢をして眠りはしないと心に決めて、好奇心の誘うままに、その「眠い町」の方を指して歩いてきました。二 なるほどこの町にきてみると、それは人々のいったように気味の悪い町でありました。音ひとつ聞・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・ 道子はそう呟きながら、道子は、姉の死の悲しい想出のつきまとう内地をはなれて、遠く南の国へ誘う「旅への誘い」にあつく心をゆすぶられていた。 二十七の歳までお嫁にも行かず、若い娘らしい喜びも知らず、達磨さんは孤独な、清潔な苦労とにらみ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
出典:青空文庫