・・・レヴューの名題には肉体とか絢爛とか誘惑とかいう文字が羅列され、演劇には姦淫、豺狼、貪乱といったような文字が選び出されている。 浅草の興行街には久しく剣劇といいチャンバラといわれた闘争の劇の流行していたことは人の記憶している所である。博徒・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・最後に残るのは――貴方がたの中で能く誘惑ということを言いましょう。人と歩調を合わして行きたいという誘惑を感じても、如何せんどうも私にはその誘惑に従う訳に行かぬ。丁度跛を兵式体操に引き出したようなもので、如何せんどうも歩調が揃わぬ。それは、諸・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。 してみると権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被せるとか、または他人をその方面・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・あるいはまた、いま歩いている道はまともな道だけれども、実にその道はすれすれに誘惑ととなり合わせていることを感じて生きていることだろう。若い女性たちの中に、この頃、はっきりこういう危険な状態を見分ける鑑識ができてきた。一見ささいなこの実力こそ・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・ 自分にとって、波多野氏の方から誘惑したとかどうとか云うことは窮極の問題ではない。誘惑と云うものは、あって無いものだ。誘惑される主体さえ無ければ。 どっちが先に死の問題を持ち出したか、と云うことは、前の問題よりは重大だ。が、これとて・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・これが先ず感覚の或る一つの特長だと煽動してもさして人々を誘惑するに適当した詭弁的独断のみとは云えなかろう。もしこれを疑うものがあれば、現下の文壇を一例とするのが最も便利な方法である。自分は昨年の十月に月評を引き受けてやってみた。すると、或る・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・梶はまたすぐ、新武器のことについて訊きたい誘惑を感じたが、国家の秘密に栖方を誘いこみ、口を割らせて彼を危険にさらすことは、飽くまで避けて通らねばならぬ。狭い間道をくぐる思いで、梶は質問の口を探しつづけた。「俳句は古くからですか。」 ・・・ 横光利一 「微笑」
・・・一度なんぞは、ある気狂い女が夢中に成て自分の子の生血を取てお金にし、それから鬼に誘惑されて自分の心を黄金に売払ったという、恐ろしいお話しを聞いて、僕はおっかなくなり、青くなって震えたのを見て「やっぱりそれも夢だったよ」と仰って、淋しそうにニ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・恋、女、酒あるいは芸術、そういうものは猛烈に我々を誘惑にかかるのです。時にはそのためにすべての顧慮を捨てて、底まで溺れ切ろうという気も起こります。それが何となく英雄的にさえも感ぜられるのです。 これは一方から言えばいい事に相違ありません・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
・・・彼は社会の悪と人間の愚とを罵るが、しかしそれは社会を救済するためではなくて、ファウストを誘惑しファウストから「人間」に対する愛と信頼とを奪うためである。道を求むる人は必ず一度はこの試みに逢わねばならない。ファウストはこの誘惑を切り抜けて、社・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫