・・・と意外にはっきりした語調で言って、一つまみのパンをとり腕をのばし、あやまたず私の口にひたと押し当てました。私も、もうすでに度胸がついていたのだ。恥じるよりは憎んだ。あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。このように弟子たち皆の前で公然と私を辱・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ 津島の語調は優しかった。「きょうでなければ、あたし、困るんです」 津島は、もう、そこにいなかった。 ……見すぼらしい女の、出産にからむ悲劇。それには、さまざまの形態があるだろう。その女の、死なねばならなかったわけは、それは・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・と客も私の煮え切らなさに腹が立って来た様子で語調を改め、「小説を書くに当ってどんな信条を持っているのですか。たとえば、ヒュウマニティだとか、愛だとか、社会正義だとか、美だとか、そんなもの、文壇に出てから、現在まで、またこれからも持ちつづけて・・・ 太宰治 「鴎」
・・・マダムはお辞儀をしてから、青扇にかくすようにして大型の熨斗袋をそっと玄関の式台にのせ、おしるしに、とひくいがきっぱりした語調で言った。それからもいちどゆっくりお辞儀をしたのである。お辞儀をするときにもやはり片方の眉をあげて、下唇を噛んでいた・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・と重大な仕事があった。「熊本君。」と語調を改めて呼びかけ、甚だ唐突なお願いではあるが、制服と帽子を、こんや一晩だけ貸して下さるまいか、と真面目に頼み込んだのである。「制服と帽子? あの、僕の制服と帽子ですか?」熊本君は不機嫌そうに眉・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・私の語調が強すぎたのかも知れない。「そこへ行くのさ。」私は番頭の持っている提燈を指さした。福田旅館と書かれてある。「はは。」老いた番頭は笑った。 自動車を呼んで貰って、私は番頭と一緒に乗り込んだ。暗い町である。房州あたりの漁師ま・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・とやはり、いや味な語調である。「わかりました。おいとましましょう。こごとを聞きに来たんじゃないんだからなあ。一対一だ。そっくりかえっていることは無いんだ。」捨てぜりふを残して立ち去った。私はひそかに、ほっとした。 ふたたび、先日の贋百姓・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・幸吉は、きっぱりした語調で言って、それから自身の興奮に気づいて恥ずかしそうに、笑い出し、「今夜は、どこへでも、つき合うって、約束してくれたんじゃないですか。」 そう言われて、私も決心した。「よし、はいろう。」たいへんな決意である。・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・それが、なんとも言えず、骨のずいに徹するくらいの冷厳な語調であった。底知れぬ軽蔑感が、そのたった一語に、こめられて在った。僕は、まいった。酔いもさめた。けれども苦笑して、「あ、失礼。つい酔いすぎて。」と軽く言ってその場をごまかしたが、腸・・・ 太宰治 「水仙」
・・・などと言って、僕等が其の無礼なことを語った時には、それとなく弁護するような語調を漏らしたことさえあった。お民は此のカッフェーの給仕女の中では文学好きだと言われていた。生田さんが或時「今まで読んだものの中で何が一番面白かったか。」ときくと、お・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫