・・・て一安神していると、間もなく、ふいに思わぬところから火の手がせまって来たりして、せっかくもち出したものもそのままほうってにげ出す間もなく、こんどは、ぎゃくにまっ向うから火の子がふりかぶさって来るという調子で、あっちへ、こっちへと、いくどもに・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・それでも末弟は、得意である。調子が出て来た、と内心ほくほくしている。「やたらに煩瑣で、そうして定理ばかり氾濫して、いままでの数学は、完全に行きづまっている。一つの暗記物に堕してしまった。このとき、数学の自由性を叫んで敢然立ったのは、いまのそ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そこへ竜騎兵中尉が這入って来て、平生の無頓着な、傲慢な調子でこう云った。「諸君のうちで誰か世界を一周して来る気はありませんか。」 ただこれだけで、跡はなんにも言わない。青天の霹靂である。一同暫くは茫然としていた。笑談だろうか。この貴・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。 叫喚、悲鳴、絶望、渠は室の中をのたうちまわった。軍服のボタンは外れ、胸の辺はかきむし・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ しかしそのような排列のあらゆる可能な変化のうちで、何かしらだらしなく見えるのと、どこか格好よく調子よく見えるものとの区別がありはしないか。これはむつかしい問題ではあるが、そういう区別があるとしないとある種の未来派の絵などの存在理由は消・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・と、彼はそれをどういうふうに言い現わしていいか解らないという調子であった。 が、とにかく彼らは条件なしの幸福児ということはできないのかもしれなかった。 私は軽い焦燥を感じたが、同時に雪江に対する憐愍を感じないわけにはいかなかった。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 腰で調子をとって、天秤棒をギシギシ言わせながら、一度ふれては十間くらいあるく。それからまた、こんにゃはァ、と怒鳴るのだが、そんなとき、どっかから、「――こんにゃくやさーん」 と、呼ぶ声がき・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・と思えば先生の耳には本調子も二上りも三下りも皆この世は夢じゃ諦めしゃんせ諦めしゃんせと響くのである。されば隣りで唄う歌の文句の「夢とおもひて清心は。」といい「頼むは弥陀の御ン誓ひ、南無阿弥陀仏々々々々々々。」というあたりの節廻しや三味線の手・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・彼は能く唄ったけれど鼻がつまって居る故か竹の筒でも吹くように唯調子もない響を立てるに過ぎない。性来頑健は彼は死ぬ二三年前迄は恐ろしく威勢がよかった。死ぬ迄も依然として身体は丈夫であったけれど何処となく悄れ切って見えた。それは瞽女のお石がふっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と丸き男は調子をとりて軽く銀椀を叩く。葛餅を獲たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左りへ馳け廻る。「蟻の夢が醒めました」と女は夢を語る人に向って云う。「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。「抜け出ぬか、抜け出ぬか」・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫