・・・――まあ、災難とお諦めなさい。しかし馬の脚は丈夫ですよ。時々蹄鉄を打ちかえれば、どんな山道でも平気ですよ。……」 するともう若い下役は馬の脚を二本ぶら下げたなり、すうっとまたどこかからはいって来た。ちょうどホテルの給仕などの長靴を持って・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです。」「じゃお前は焼かないと云う訳か?」 牧野の眼にはちょいとの間、狡猾そうな表情が浮んだ。「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中おれなんぞは、――」 そこへ婆さんが勝手から、あつら・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 罪人は諦めたような風で、大股に歩いて這入って来て眉を蹙めてあたりを見廻した。戸口で一秒時間程躊躇した。「あれだ。あれだ。」フレンチは心臓の鼓動が止まるような心持になって、今こそある事件が始まるのだと燃えるようにそれを待っているのである・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・なるほど民子は私にそう云われて見れば自分の身を諦める外はない訣だ。どうしてあんな酷たらしいことを云ったのだろう。ああ可哀相な事をしてしまった。全く私が悪党を云うた為に民子は死んだ。お前はネ、明朝は夜が明けたら直ぐに往ってよオく民子の墓に参っ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ おとよは省作と自分と二人の境遇を、つくづくと考えた上に所詮余儀ないものと諦め、省作を手離して深田へ養子にやり、いよいよ別れという時には、省作の手に涙をふりそそいで、「こうして諦めて別れた以上は、わたしのことは思い棄て、どうぞおつね・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 咳というものは伝染するものか、それとも私をたしなめるための咳ばらいだったのかなと考えながら、雨戸を諦めて寐ることにした。がらんとした部屋の真中にぽつりと敷かれた秋の夜の旅の蒲団というものは、随分わびしいものである。私はうつろな気持で寐・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・そして、父の方をうかがうと、父はその女の子を可愛がろうともせずに、玉子と喧嘩ばかりしていたので、私はべつに自分や新次が父に可愛がられなくても、少しは諦めがつくと、早熟な考えをした。しかし、玉子はけちくさい女で、買いぐいの銭などくれなかったか・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・でも昨今は彼女も諦めたか、昼間部屋の隅っこで一尺ほどの晒しの肌襦袢を縫ったり小ぎれをいじくったりしては、太息を吐いているのだ。 何しろ、不憫な女には違いない。昨年の夏以来彼女の実家とは義絶状態になっていたのだが、この一月中旬突然彼女の老・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・今度だけは娘の意志に任せるほかあるまいと諦めていたのだ。四「俺の避難所はプアだけれど安全なものだ。俺も今こそかの芸術の仮面家どもを千里の遠くに唾棄して、安んじて生命の尊く、人類の運命の大きくして悲しきを想うことができる……」・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・そして女の諦めたような平気さが極端にいらいらした嫌悪を刺戟するのだった。しかしその憤懣が「小母さん」のどこへ向けられるべきだろう。彼が今日にも出てゆくと言っても彼女が一言の不平も唱えないことはわかりきったことであった。それでは何故出てゆかな・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫