・・・素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。おぎんは両親を失った後、じょあん孫七の養女になった。孫七の妻、じょあんなおすみも、やはり心の優しい人である。おぎんはこの夫婦と一しょに、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。勿・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・そう云えばもう一つ、その頭の上の盆提灯が、豊かな胴へ秋草の模様をほんのりと明く浮かせた向うに、雨上りの空がむら雲をだだ黒く一面に乱していたのも、やはり妙に身にしみて、忘れる事が出来ません。 そこで肝腎の話と云うのは、その新蔵と云う若主人・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・それから食膳の豊かすぎることを内儀さんに注意し、山に来たら山の産物が何よりも甘いのだから、明日からは必ず町で買物などはしないようにと言い聞かせた。内儀さんはほとほと気息づまるように見えた。 食事が済むと煙草を燻らす暇もなく、父は監督に帳・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 母の芸術上の趣味は、自分でも短歌を作るくらいのことはするほどで、かなり豊かにもっている。今でも時々やっているが、若い時にはことに好んで腰折れを詠んでみずから娯んでいた。読書も好きであるが、これはハウスワイフということに制せられて、思う・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・しなやかに光沢のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、それらが悉く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言は云えなくなる・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の伝法院へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と懇ろにした。この教信は好事の癖ある風流人であ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・雲を見、その下に横わる曠野を想い、流るゝ河を眼に描き、さらに生活する人々を考える時、郷愁豊かなる民謡の自ら念頭に浮ぶを覚える。永遠に、人は、土を慕い、自由を求めてやまないのだ。一切の虚偽を破壊するものは、常に、心の底に流れる、この単純化のロ・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・の端に、掛って知った醜さは、南蛮渡来の豚ですら、見れば反吐をば吐き散らし、千曲川岸の河太郎も、頭の皿に手を置いて、これはこれはと呆れもし、鳥居峠の天狗さえ、鼻うごめいて笑うという、この面妖な旗印、六尺豊かの高さに掲げ、臆面もなく白昼を振りか・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩の畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。 羨ましい、素晴しく幸福そうな眺めだった。涼しそうな緑の衝立の蔭。確かに清冽で豊かな水。なんとなく魅せられた感じであった。きょ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・その路はしばらくすると暗い杉林のなかへは入ってゆくのだったが、打ち展けた平地と大らかに明るい傾斜に沿っているあいだ、それはいかにも空想の豊かな路に見えるのだった。「ちょっとあすこをご覧なさい」私は若い母に指して見せた。背負い枠を背負った・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
出典:青空文庫