・・・ 伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の伝法院へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と懇ろにした。この教信は好事の癖ある風流人であ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そうすると母が、『お前腹がすきはせんか、腹がすいたら餅をお喰べ、出して上げようか』と言って合財嚢の口を開きかけます。私が、『腹はすかない』と言えば、『そんなことを言わないで一つお喰べ、おっかさんも喰べるから』と言って無理に餅をくれます。そう・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・作物を買ってやる財嚢の不振である。文士からいえば米櫃の不振である。新設されべき文芸院が果してこの不振の救済を急務として適当の仕事を遣り出すならば、よし永久の必要はなしとした所で、刻下の困難を救う一時の方便上、文壇に縁の深い我々は折れ合って無・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・臼杵から先、中津の自性寺を見、福岡の友でも訪ねるか、いずれにせよ、軽少の財嚢に準じて謙遜な望みしか抱いていなかった。臼杵の、日向灘を展望する奇麗な公園からK氏の別荘へぶらぶら帰る時であった。Y、「どうする? やはり中津へ廻る?」「――ふうむ・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫