・・・ 貝殻を敷いた細い穢い横町で、貧民窟とでもいいそうな家並だ。山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下ろして、売れ残りの野菜物に水を与れていた。私は泊り客かと思ったら、後でこの家の亭主と知れた。「・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・神聖な民族でありながらもその誇りを忘れて、エジプトの都会の奴隷の境涯に甘んじ貧民窟で喧噪と怠惰の日々を送っている百万の同胞に、エジプト脱出の大事業を、「口重く舌重き」ひどい訥弁で懸命に説いて廻ってかえって皆に迷惑がられ、それでも、叱ったり、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・或る婦人団体の幹事さんたちが狐の襟巻をして、貧民窟の視察に行って問題を起した事があったでしょう? 気を附けなければいけません。小説に依ると戸田さんは、着る着物さえ無くて綿のはみ出たドテラ一枚きりなのです。そうして家の畳は破れて、新聞紙を部屋・・・ 太宰治 「恥」
・・・のものは適当の距離から撮るべきである。これも舶来ものを参照すればわかるであろう。第四にはセットの道具立てがあまり多すぎて、印象を散漫にしうるさくする場合が多い。たとえば「忠弥」の貧民窟のシーンでもがそうである。セットの各要素がかえって相殺し・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・杉の茂りの後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人通のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになって呉れればと、父が絶えず憎んで居る貧民窟である。もともと分れ分れの小屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内にはなって居るが、古井戸のあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・鮫ケ橋の貧民窟は聞いて名ばかりを知って居る。 こんな子供ばかりで居る暮しを見た事もない。私はこの家の暮しは、話できいて居るよりもひどいと思った。 こんなにも道具がなくて暮す事が出来るのだろうか、子供ばかり置かれてどうするだろうか。・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては病院めぐりをし、貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで逗留したとき、フロレンスは二人の・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・に燃えて、カザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部に大学生プレットニョフと暮しているのであった。が、プレットニョフとゴーリキイとが暮しているのは、その有名な貧民窟の中にあっても部屋と名づけられない階段下の廊下の一隅であった。屋根裏へのぼる階段の・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ こういう心で、ゴーリキイはカザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部屋に、大学生プレットニョフと生活しているのであった。彼の全心に「ぼんやりとした、しかし、これまで見たすべてよりももっと意義のある何物かへの欲求」を抱きつつ。 ゴーリキイ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
・・・ ゴーリキイは、淫売婦や貧しい大学生、人生での敗残者などがごたごた棲んでいるカザンの貧民窟の一隅に、急進的な一人の学生と暮した。そこにはたった一つの寝台があるだけであった。学生とゴーリキイとは夜昼交代にそこへ寝て、ゴーリキイはヴォルガ河・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」
出典:青空文庫