・・・何しろ貧しい達雄にはピアノを買う金などはないはずですからね。 主筆 ですがね、堀川さん。 保吉 しかし活動写真館のピアノでも弾いていられた頃はまだしも達雄には幸福だったのです。達雄はこの間の震災以来、巡査になっているのですよ。護憲運・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ともちゃん、おまえのその帯の間に、マドンナの胸の肉を少しばかり買う金がありゃしないか。とも子 なかったわ。私ずいぶん長い間なんにももらわないんですもの。瀬古 許しておくれ、ともちゃん、僕たちはおまえんちの貧乏もよく知ってるんだが…・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・「……干鯛かいらいし……ええと、蛸とくあのく鱈、三百三もんに買うて、鰤菩薩に参らする――ですか。とぼけていて、ちょっと愛嬌のあるものです。ほんの一番だけ、あつきあい下さいませんか。」 こう、つれに誘われて、それからの話である。「蛸と・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・弱音を吹いて見たところで、いたずらに嘲笑を買うまでで、だれあって一人同情をよせるものもない。だれだってそうだといわれて見るとこれきりの話だ。 省作も今は、なあにという気になった。今日の稲刈りで、よし田ん中へ這ったって、苦しいのなんのとい・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・つかってしまったのでしょうことなしに親の時からつかわれて居た下男を夫にしてその土地を出て田舎に引き込んでその日暮しに男が犬をつって居ると自分は髪の油なんかうって居たけれどもこんなに落ぶれたわけをきいて買う人がないので暮しかね朝の露さえのどを・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・随って相場をする根性で描く画家も、株を買う了簡で描いてもらう依頼者もなかった。時勢が違うので強ち直ちに気品の問題とする事は出来ないが、当時の文人や画家は今の小説家や美術家よりも遥かに利慾を超越していた。椿岳は晩年画かきの仲間入りをしていたが・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・娘は、自分の思いつきで、きれいな絵を描いたら、みんなが喜んで、ろうそくを買うだろうと思いましたから、そのことをおじいさんに話しますと、そんならおまえの好きな絵を、ためしにかいてみるがいいと答えました。 娘は、赤い絵の具で、白いろうそくに・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・女がいるのを見て、あっと思ったらしかったが、すぐにこにこした顔になると、「さあ、買うて来ましたぜ」 と、新聞紙に包んだものを、私の前に置いた。罎のようだったから、訳がわからず、変な顔をしていると、男は上機嫌に、「石油だ。石油だす・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 夕方近くになって、彼は晩の米を買う金を一円、五十銭と貰っては、帰って来る。と、彼は帰りの電車の中でつく/″\と考える。――いや、彼を使ってやろうというような人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪え兼ねては、逃げ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 女を買うということが、こんなにも暗く彼の生活へ、夢に出るまで、浸み込んで来たのかと喬は思った。現実の生活にあっても、彼が女の児の相手になっている。そしてその児が意地の悪いことをしたりする。そんなときふと邪慳な娼婦は心に浮かび、喬は堪ら・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫