・・・そこには僕の気のせいか、質素な椅子やテエブルの間に何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。「あなたはどうもほかの河童よりもしあわせに暮らしているようですね?」「さあ、それはそうかもしれない。わたしは若い時は年よりだったし、年・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、まん中にテエブルが一つ、壁側に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ――ほかにはただ我々の腰をかける、椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁へ赤く花模様を織り・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・ 辺幅を修めない、質素な人の、住居が芝の高輪にあるので、毎日病院へ通うのに、この院線を使って、お茶の水で下車して、あれから大学の所在地まで徒歩するのが習であったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、勤人が・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・玄関へ立つと、面長で、柔和かなちっとも気取っけのない四十ぐらいな――後で聞くと主人だそうで――質素な男が出迎えて、揉手をしながら、御逗留か、それともちょっと御入浴で、と訊いた時、客が、一晩お世話に、と言うのを、腰を屈めつつ畏って、どうぞこれ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・知性があって、質素で社会心のある娘を好むなら、そうした志向が青年にあるのだ。 娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むしろさかんな注文を出して、立派な、特色のある娘たちを産み出してもらいたいものだ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・しかしそのために雷霆の如く怒号する野の予言者を排斥してはならない。質素な襟飾をつけた謙遜な教授は尊敬すべきであるが、そのために舌端火を吐く街頭の闘士を軽蔑することはできぬ。むしろわれわれが要望するのは最も柔和なる者の獅子吼である。最も優美な・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 前に申したように御維新の後は財産を亡くしたという訳では無かったですが、家は非常に質素な生活を仕て居て、どうかすれば大工の木ッ葉拾いにでも遣られようという勢いでしたから、学校へ遣って貰うのさえ漸々出来たような始末で、石筆でも墨でも小さく・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着に襟のところだけ紫の刺繍のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足を脛のあたりまであらわしながら・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・働くことはよく働きますナ……それに非常な質素なところだ……ですけれど、高瀬さん、チアムネスというものは全くこの辺の娘に欠けてますネ」 子安は心から出た声で快活に笑った。「まるで、ゴツゴツした岩みたような連中ばかりだ」と彼は附添した。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・生活を変えるとは言っても、加藤さんに家へ来てもらって、今までどおりに質素に暮らして行こうというだけのことです。 期日は十一月の三日ということに先方とも打ち合わせました。当日は星が岡の茶寮でも借り受け、先方の親戚二、三人と西丸さん、吉村さ・・・ 島崎藤村 「再婚について」
出典:青空文庫