・・・煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様のお賽銭に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋とも見えず挟って、腰帯ばかりが紅であった。「姉さんの言い値ほどは、お手・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 二 そう云って、綻びて、袂の尖でやっと繋がる、ぐたりと下へ襲ねた、どくどく重そうな白絣の浴衣の溢出す、汚れて萎えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込んだのは、賽銭を探ったらしい。 が、チヤリリと・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ここだけ畳を三畳ほどに、賽銭の箱が小さく据って、花瓶に雪を装った一束の卯の花が露を含んで清々しい。根じめともない、三本ほどのチュリップも、蓮華の水を抽んでた風情があった。 勿体ないが、その卯の花の房々したのが、おのずから押になって、御廚・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 今日は方々にお賽銭が多い。道中の心得に、新しく調えた懐中に半紙があった。 目の露したたり、口許も綻びそうな、写真を取って、思わず、四辺を見て半紙に包もうとした。 トタンに人気勢がした。 樹島はバッとあかくなった。 猛然・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ 祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香のにおいが愚かな女の心を、女の顔を安らかにする。 そこで、ほっと一安心して、さて「めをとぜんざい」でも、食べまひょか。 大阪の人々の食意地の汚なさは、何ごとにも比しがたい。いまは・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 拝殿の前まで来ると、庄之助は賽銭を投げて、寿子に、「日本一のヴァイオリン弾きになれますようにと、お祈りするんだぞ」 と、言った。 寿子は言われた通り、小さな手を合わせて、「日本一のヴァイオリン弾きになれますように」・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・でたく帰国するまで幸衛門を初めお絹お常らの身に異変なく来年の夏またあの置座にて夕涼しく団居する中にわれをも加えたまえと祈り終わりてしばしは頭を得上げざりしが、ふと気が付いて懐を探り紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱の上に置き、他の人が早く来て拾えば・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・お寺参りのお賽銭か何かに使って下さい。僕には、お金がたくさんあるんだ。僕が自分で働いて得たお金なんだから、受け取って下さい。」と大いに恥ずかしかったが、やけくそになって言った。 母と叔母は顔を見合せて、クスクス笑っていた。私は頑強にねば・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業の太鼓御賽銭の音に汚すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡隣に坐った禿頭の行商と欠伸の掛け合いで帰って来たら大通りの・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
出典:青空文庫