・・・交潤社は四条通と木屋町通の角にある地下室の酒場で、撮影所の連中や贅沢な学生達が行く、京都ではまず高級な酒場だったし、しかも一代はそこのナンバーワンだったから、寺田のような風采の上らぬ律義者の中学教師が一代を細君にしたと聴いて、驚かぬ者はなか・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・自分は大した贅沢な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五円もあれば自分等家族五人が饑彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヵ月は、それが何処からも出ては来なかった。何処も彼処も封じられて了った。一日・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・とは言えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。――そう言ったものが自然私を慰めるの・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・よしんば二十五円に十円ふえたらどれだけの贅沢ができる。――みんな欲で欲には限りがない――役目となれば五円が十円でも、雨の日雪の日にも休むわけにはいかない、やっぱり腰弁当で鼻水をたらして、若い者の中にまじってよぼよぼと通わなければならぬ。オヽ・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ 読書にとらわれる、とらわれないというのはそれ以上の高い立場からの要請であって、勉強して読書することだけにできない者にとっては、そんな懸念は贅沢の沙汰である。 読書に励む青年は見るからにたのもしそうである。生を愛し、人類を思う青年は・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・能率増進に、職場と職場が競争した。贅沢品や、化粧品をこしらえているひまはなかった。そんなものをかえりみているどころではなかった。 寒気が裂けるように、みしみし軋る音がした。 ペーチカへ、白樺の薪を放りこんだワーシカは、窓の傍によって・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 憫むべし晩成先生、嚢中自有レ銭という身分ではないから、随分切詰めた懐でもって、物価の高くない地方、贅沢気味のない宿屋を渡りあるいて、また機会や因縁があれば、客を愛する豪家や心置ない山寺なぞをも手頼って、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州の・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・苫一枚というのは凡そ畳一枚より少し大きいもの、贅沢にしますと尺長の苫は畳一枚のよりよほど長いのです。それを四枚、舟の表の間の屋根のように葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳の室の天井のように引いてしまえば、苫は十分に日も雨も防ぎま・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐ったり何か変なことをいたし、まるで狂人じみて居・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ そんなことすら長い年月の間、非常な贅沢な願いのように考えられていた。でも、白足袋ぐらいのことは叶えられる時が来た。 比佐は名影町の宿屋を出て、雲斎底を一足買い求めてきた。足袋屋の小僧が木の型に入れて指先の形を好くしてくれたり、滑か・・・ 島崎藤村 「足袋」
出典:青空文庫