・・・お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢を言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをし・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・勿論今までのように途方もない贅沢は出来ない。 先ずノイレングバハに別荘を借りた。ウィインから急行で半時間掛かる。風景はなかなか好い。そして丸で人が来ない。そこに二人は気楽に住んでいる。風来もののドリスがどの位面白い家持ちをするかと云うこ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いでもとの棚へ返した。 その下の棚に青い釉薬のかかった、極めて粗製らしい壷が二つ三つ塵に埋れてころがっているのを拾い上げて見た。実に粗末なものではある・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ 銀座界隈はいうまでもなく日本中で最もハイカラな場所であるが、しかしここに一層皮肉な贅沢屋があって、もし西洋そのままの西洋料理を味おうとしたなら銀座界隈の如何なる西洋料理屋もその目的には不適当なる事を発見するであろう。銀座の文明と横浜の・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・その上に贅沢を云えば自転車にするでしょう。なおわがままを云い募ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・じて頻りに其歓心を買い其機嫌を取らんとし、衣裳万端その望に任せて之を得せしめ、芝居見物、温泉旅行、春風秋月四時の行楽、一として意の如くならざるものなければ、俗に言う御心善の内君は身の安楽を喜び、世間の贅沢附合に浮かれて内を外にし、家内の取締・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・病気になって全く床を離れぬようになってからは外に楽みがないので、食物の事が一番贅沢になり、終には菓物も毎日食うようになった。毎日食うようになっては何が旨いというよりは、ただ珍らしいものが旨いという事になって、とりとめた事はない。その内でも酸・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ そして、これらの変化にはやはり贅沢禁止のいろいろな運動が役にたっているにちがいないのだろう。街のプラタナスの今年の落葉は、「簡素のなかの美しさ」という立看板に散りかかっている。パン屋や菓子屋の店さきのガラス箱にパンや菓子がないように、・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均しくこれ casus である。Casus として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにし・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・「肴屋か。あんなけちんぼは、俺とこの株内やないぞ。」「そうかて谷川って云うのは、あの家一軒ばち有るか。お前とこの株内や。」「だいたいあの家、俺は好かんのや。」「贅沢ぬかしてよ。俺が連れてってやるぞ。立て立て。」「あっこは・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫