一 どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなった。今の世の中には面白い事がなくなったというばかりならまだし・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・今日この劇場内外の空気の果して時代の趨勢を観察するに足るものであったか否か。これまた各自の見るところに任すより外はない。 わたしは筆を中途に捨てたわが長編小説中のモデルを、しばしば帝国劇場に演ぜられた西洋オペラまたはコンセールの聴衆の中・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・これが保存の法と恢復の策とを講ずる如きは時代の趨勢に反した事業であるのみならず、又既に其時を逸している。わたくし達は白鬚神社のほとりに車を棄て歩んで園の門に抵るまでの途すがら、胸中窃に廃園は唯その有るがままの廃園として之をながめたい。そして・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・今の世の中にはあのようなものが芸術家を以て目せられるのも自然の趨勢であると思ったので、面晤する場合には世辞の一ツも言える位にはなっている。活動写真に関係する男女の芸人に対しても今日の僕はさして嫌悪の情を催さず儼然として局外中立の態度を保つこ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・かく積極消極両方面の競争が激しくなるのが開化の趨勢だとすれば、吾々は長い時日のうちに種々様々の工夫を凝し智慧を絞ってようやく今日まで発展して来たようなものの、生活の吾人の内生に与える心理的苦痛から論ずれば今も五十年前もまたは百年前も、苦しさ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ 私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上その社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事を御吹聴に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・「最後に小生は目下我邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒みて、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手許まで御返付致します。敬具」 要するに文部大臣・・・ 夏目漱石 「博士問題の成行」
・・・それから、現今の露西亜文壇の趨勢の断えず変っている有様やら、知名の文学者の名やら、日本の小説の売れない事やら、露西亜へ行ったら、日本人の短篇を露語に訳して見たいという希望やら、いろいろ述べた。何しろ三人寝そべって、二三時間暮らしていたのだか・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・さまで優劣の階段を設くる必要なき作品に対して、国家的代表者の権威と自信とを以て、敢て上下の等級を天下に宣告して憚らざるさえあるに、文明の趨勢と教化の均霑とより来る集合団体の努力を無視して、全部に与うべきはずの報酬を、強いて個人の頭上に落さん・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
・・・人間としてこの性質を帯びている以上は作物の上にも早晩この性質を発揮するのが天下の趨勢である。いわゆる混戦時代が始まって、彼我相通じ、しかも彼我相守り、自己の特色を失わざると共に、同圏異圏の臭味を帯びざるようになった暁が、わが文壇の歴史に一段・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
出典:青空文庫