・・・の亭主などは少し怪しい者が泊ればすぐ訴人したが、登勢はおいごと刺せと叫んだあの声のような美しい声がありきたりの大人の口から出るものかと、泊った浪人が路銀に困っているときけば三十石の船代はとらず、何かの足しにとひそかに紙に包んで渡すこともあっ・・・ 織田作之助 「螢」
・・・吉田がその市場で用事を足して帰って来ると往来に一人の女が立っていて、その女がまじまじと吉田の顔を見ながら近付いて来て、「もしもし、あなた失礼ですが……」 と吉田に呼びかけたのだった。吉田は何事かと思って、「?」 とその女を見・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。「だって北海道は馬鈴薯が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊ねた。「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々酷い目に遇ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・と言い足した。「坊様、お上がんなさいナ。早くお前さんも上がってください、ここでぐずぐずしているといけないから」と女は徳二郎を促したので、徳二郎は早くも梯子段を登りはじめ、「坊様、暗うございますよ」と言ったぎり、女とともに登ってしまっ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・親爺が満足したのは、田地持ちの分限者の「伊三郎」と姻戚関係になったからである。おふくろが満足したのは、トシエが二タ棹の三ツよせの箪笥に、どの抽出しへもいっぱい、小浜や、錦紗や、明石や、――そんな金のかかった着物を詰めこんで持って来たからであ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 少年はまた二匹ばかり着け足した。 今まで何処で釣っていたのだい、此処は浮子釣りなんぞでは巧く行かない場だよ。 今までは奥戸の池で釣ってたよ、昨日も一昨日も。 釣れたかい。 ああ、鮒が七、八匹。 奥戸というのは対岸で・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・そこには私の意匠した縁台が、縁側と同じ高さに、三尺ばかりも庭のほうへ造り足してあって、蘭、山査子などの植木鉢を片すみのほうに置けるだけのゆとりはある。石垣に近い縁側の突き当たりは、壁によせて末子の小さい風琴も置いてあるところで、その上には時・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ と言いながら、先生は新規に造り足した部屋を高瀬に見せ、更に楼階の下の方までも連れて行って見せた。そこは食堂か物置部屋にでもしようというところだ。崖を崩して築き上げた暗い石垣がまだそのままに顕われていた。 二人は復た川の見える座敷へ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・此物語の中にも沢山そう云う処がありますが、判り難そうな場処は言葉を足して、はっきり訳しました。此をお読みになる時は、熱い印度の、色の黒い瘠せぎすな人達が、男は白いものを着、女は桃色や水色の薄ものを着て、茂った樹かげの村に暮している様子を想像・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・と言い足してみたが、私は、やはりなんだか恥ずかしかった。「木村たけお。」佐伯は、うなずいて、「木村武雄くんと一緒に来たんだがね。」「木村たけお? 木村、武雄くんですか?」障子の中でも、不審そうに呟いている。私は、たまらなくなって来た・・・ 太宰治 「乞食学生」
出典:青空文庫