・・・ 河内山は懐から、黄いろく光る煙管を出したかと思うと、了哲の顔へ抛りつけて、足早に行ってしまった。 了哲は、ぶつけられた所をさすりながら、こぼしこぼし、下に落ちた煙管を手にとった。見ると剣梅鉢の紋ぢらしの数寄を凝らした、――真鍮の煙・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・僕はまだ余憤を感じたまま、出来るだけ足早に歩いて行った。が、いくら歩いて行っても、枳殻垣はやはり僕の行手に長ながとつづいているばかりだった。 僕はおのずから目を覚ました。妻や赤子は不相変静かに寝入っているらしかった。けれども夜はもう白み・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・そこへ背の低い男が一人、足早にこちらへ来るらしかった。僕はふとこの夏見た或錯覚を思い出した。それはやはりこう云う晩にポプラアの枝にかかった紙がヘルメット帽のように見えたのだった。が、その男は錯覚ではなかった。のみならず互に近づくのにつれ、ワ・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・続いて、足早に刻んで下りたのは、政治狂の黒い猿股です。ぎしぎしと音がして、青黄色に膨れた、投機家が、豚を一匹、まるで吸った蛭のように、ずどうんと腰で摺り、欄干に、よれよれの兵児帯をしめつけたのを力綱に縋って、ぶら下がるように楫を取って下りて・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 今は最う、さっきから荷車が唯辷ってあるいて、少しも轣轆の音の聞えなかったことも念頭に置かないで、早くこの懊悩を洗い流そうと、一直線に、夜明に間もないと考えたから、人憚らず足早に進んだ。荒物屋の軒下の薄暗い処に、斑犬が一頭、うしろ向に、・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・男は足早に、女は静に。――幕――大正三年十月 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・金を払って外へ出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛り場を足早に歩いた。熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。やはり暑い日だった。 十日目、ちょうど地蔵盆で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出され・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 足早に橋を渡って、「お正さんお正さん。彼れです。彼の女です!」「まア、彼の人ですか!」とお正も吃驚して見送る。「如何して又、こんな処で会ったろう。彼女も必定僕と気が着いたに違いない。お正さん僕は明日朝出発ますよ。」「ま・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・背格好から歩きつきまで確かに武だと思ったが、彼は足早に過ぎ去って木陰に隠れてしまった。 この姿のおかげで老人は空々寂々の境にいつまでもいるわけにゆかなくなった。 甥の山上武は二三日前、石井翁を訪うて、口をきわめてその無為主義を攻撃し・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通り抜ける。蜜柑を積んでいる。 と、「まあ誰ぞいの」と機を織っていた女が甲走った声を立てる。藁の男が入口に立ち塞って、自分を見て笑いながら、じりじりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押しこめている・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫