・・・今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。 極楽水はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長家が建ったので昔ほど淋しくはないが、その長家が左右共闃然として空家のように見・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・平田は足早に家外へ出た。「平田さん、御機嫌よろしゅう」と、小万とお梅とは口を揃えて声をかけた。 西宮はまた今夜にも来て様子を知らせるからと、吉里へ言葉を残して耳門を出た。「おい、気をつけてもらおうよ。御祝儀を戴いてるんだぜ。さよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・だから急いで顔を背けて、足早に通り抜け、漸と小間物屋の開店だけは免れたが、このくらいにも神経的になっていた。思想が狂ってると同時に、神経までが変調になったので、そして其挙句が……無茶さ! で、非常な乱暴をやっ了った。こうなると人間は獣的・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ そしてまるで足早に、つまずきながら森へはいってしまいました。二人は何べんも行ったり来たりして、そこらを泣いて回りました。とうとうこらえ切れなくなって、まっくらな森の中へはいって、いつかのホップの門のあたりや、わき水のあるあたりをあちこ・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・モンゴリア人が馬に車をひかせ長い裾をハタハタひるがえして足早に雪の中をこいで行く。 イルクーツク。一時間進む。 列車車掌の室は各車台の隅にある。サモワールがある。ロシアのひどく炭酸ガスを出す木炭の入った小箱がある。柵があって中に台つ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・それからあと、雨が降る日には、道のそっち側へいつも傘を傾けるようにして足早に通った。犬はずっと、雨が降りさえすると、やっぱりそこで小舎の屋根の上へ登って、黒子だらけの女のような顔をこっちへ向けては啼いているのであった。 ・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・ 自然の圧迫を受け、黙って足早に歩きながら、なほ子は悲しい歓ばしい感動を覚えた。ここさえも、なほ子が嘗て覚えている光景とはいつかすっかり異っていた。道の工合も違う。大きな地辷りがあったと見え、巌と泥とごたまぜに崩れ落ちている丘陵も違う。・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・と、足早によってゆく若い人々もあった。 服装がばらばらなとおり、めいめいの生活もめいめいの小道の上に営まれて来ているのだけれども、きょうは、そのめいめいが、どこかでつかまっていて離さなかった一本の綱を、公然と手繰りあってここに顔を合・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・ ヴェランダの降口まで足早に去って、桃子はそこからもう一度こっちへ顔をふり向け、腹立ちより寥しい気分で遠ざかってゆくその姿を見送っていた多喜子に向って、手をふった。 シモーヌ・シモンがディアンヌという裏町の娘に扮し、ジェームス・スチ・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
・・・ 旅人は小さい白い小犬に誘われていつにもなく足早にそしてつかれずに歩きました。森を三つ許り越えた時目の前にもう村の入口が見えました。白い小犬の姿は見えませんでした。詩人はそこの立石のわきに腰をおろして汗をぬぐいながらいつの間にか、初夏の・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫