・・・あたりは広い砂の上にまだ千鳥の足跡さえかすかに見えるほど明るかった。しかし海だけは見渡す限り、はるかに弧を描いた浪打ち際に一すじの水沫を残したまま、一面に黒ぐろと暮れかかっていた。「じや失敬。」「さようなら。」 HやNさんに別れ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・にさえ、その足跡を止めている。大名と呼ばれた封建時代の貴族たちが、黄金の十字架を胸に懸けて、パアテル・ノステルを口にした日本を、――貴族の夫人たちが、珊瑚の念珠を爪繰って、毘留善麻利耶の前に跪いた日本を、その彼が訪れなかったと云う筈はない。・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・私の一生が如何に失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬか・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱の大森林、広漠としてロシアの田園を偲ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は、いかに雄心勃々たる天下の自由児を動かしたであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・お児達の歩行いた跡は、平一面の足跡でござりまするが。」「むむ、まるで野原……」 と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、「源助、時に、何、今小児を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜へ遣ったっけが、何は、……部屋に居るか・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・一時などは椽側に何だか解らぬが動物の足跡が付いているが、それなんぞしらべて丁度障子の一小間の間を出入するほどな動物だろうという事だけは推測出来たが、誰しも、遂にその姿を発見したものはない。終には洋燈を戸棚へ入れるというような、危険千万な事に・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・ここからと思われたあたりに、足跡でもあるかと見たが下駄の跡も素足の跡も見当たらない。下駄のないところを見ると素足で来たに違いない。どうして素足でここへ来たか、平生用心深い子で、縁側から一度も落ちたことも無かったのだから、池の水が少し下がって・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足跡になって、座敷のまわりを雑巾掛してそれから庭に広げてある蓆を倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。民子は雑巾がけをしてからうっ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・若くして死んだ、詩人や、革命家は、その年としては、不足のないまで、何等か人生のために足跡を残していました。 人は、年齢により、また、その時代により、生活の意識も、理想も異なるものです。この世の中が、一人の英雄によって左右されると考えられ・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・重い荷を車に積んでゆく、荷馬車の足跡や、轍から起こる塵埃に頭が白くなることもありましたが、花は、自分の行く末にいろいろな望みをもたずにはいられなかったのです。 道ばたでありますから、かや、はえがよくきて、その花の上や、また葉の上にもとま・・・ 小川未明 「くもと草」
出典:青空文庫