・・・もしこのまま手をつかねて倭軍の蹂躙に任せていたとすれば、美しい八道の山川も見る見る一望の焼野の原と変化するほかはなかったであろう。けれども天は幸にもまだ朝鮮を見捨てなかった。と云うのは昔青田の畔に奇蹟を現した一人の童児、――金応瑞に国を救わ・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・義理人情は蹂躙しても好い。卑怯者になるだけは避けなければならぬ。しかし金を借りることは、――少くとも金を借りたが最後、二十八日の月給日まで返されないことは確かである。彼は原稿料の前借などはいくらたまっても平気だった。けれども粟野さんに借りた・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ * 強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者は又道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。 * 道徳は常に古着である。 * 良心は我我の口髭のように年齢と共に生ずるもので・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・それでなお思いきってこれを蹂躙する勇気はない。つまりぐずぐずとして一種の因襲力に引きずられて行く。これを考えると、自分らの実行生活が有している最後の筌蹄は、ただ一語、「諦め」ということに過ぎない。その諦めもほんの上っ面のもので、衷心に存する・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 貞操蹂躙! 損害賠償! などと実に興覚めな事を口走り、その頃は私も一生懸命に勉強していい詩を書きたいと念じていた矢先で、謂わば青雲の志をほのかながら胸に抱いていたのでございますから、たとい半狂乱の譫言にもせよ、悪魔だの色魔だの貞操蹂躙だの・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・この男を神は、世の嘲笑と指弾と軽蔑と警戒と非難と蹂躙と黙殺の炎の中に投げ込んだ。男はその炎の中で、しばらくもそもそしていた。苦痛の叫びは、いよいよ世の嘲笑の声を大にするだけであろうから、男は、あらゆる表情と言葉を殺して、そうして、ただ、いも・・・ 太宰治 「答案落第」
・・・と遠方の若い海軍とをいい加減にだまして、いつのまにやらその家の財産にも云々、などと、まさかそれほど邪推するひとも有るまいが、何にしても、こっちは年上なのだから、無意識の裡にも、彼等のプライドを、もしや蹂躙するという事になってやしないだろうか・・・ 太宰治 「薄明」
・・・ おや、笑ったな、ちきしょうめ、あたしの手紙を軽蔑したな、そうよ、どうせ、あたしは下手よ、おっちょこちょいの化け猫ですよ、あたしの手紙の、深いふかあい、まごころを蹂躙するような悪漢は、のろって、のろって、のろい殺してやるから、そう思え! な・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・の横行のために蹂躙され忘却されてしまった。そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・現代の新婦人連は大方これに答えて、「そんなお人好な態度を取っていたなら増々権利を蹂躙されて、遂には浮瀬がなくなる。」というかも知れぬ。もし浮瀬なく、強い者のために沈められ、滅されてしまうものであったならば、それはいわゆる月に村雲、花に嵐の風・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫