・・・昼間見た光景がまさしく主客顛倒したのである。しかしこの昼と夜との二つの光景を見る順序が逆であったら、心持ちはまたおのずからちがったことであろう。批判はやはり「履歴の函数」である。 こんなことを思い出しながら俳優I氏の鼻や耳をながめていた・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ このようにして生じた時間の前後の転倒は、われわれの記憶として保存されている間にその間隔を延長するのが通例であある。その結果として後日私がこの経験を人に話す場合に「煉瓦が砕けるだろうと思って見ていたら、果して砕けた」と云ってしまう恐れが・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
一月二十七日の読売新聞で日高未徹君は、余の国民記者に話した、コンラッドの小説は自然に重きをおき過ぎるの結果主客顛倒の傾があると云う所見を非難せられた。 日高君の説によると、コンラッドは背景として自然を用いたのではない、・・・ 夏目漱石 「コンラッドの描きたる自然について」
・・・其他様々の陰陽説に就き、今日吾々が古人と為りて勝手自儘に新説を作れば、旧説を逆にして陰陽を転倒すること甚だ易し。如何となれば新旧共に根拠なければなり。斯る無根の空論を土台にして、女は陰性なり、陰は夜にして暗し、故に女子は愚なりと明言して憚ら・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・昔は自分達の行く劇場にさえ入れなかったような労働者の前へ、今は顛倒した地位で自分達が立たなければならなくなった彼等が、素朴な管理者が閉口するように、報告を出来るだけ衒学的な文句で書いたり、必要もないのに、馬鹿叮寧な術語をしかもドイツ語で並べ・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・箇性の各種の発動を自由ならしめる為の社会組織は、その物質的圧迫、或は群集の常識的低見の為に、却って伝習的形式の下に尊むべき箇性を従属せしめようと仕兼ねない価値顛倒に陥って居るのでございます。 私は勿論、前にも其と同様の心持を陳べた通り、・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 日本のきょうの文学、しかも西欧的なものを意欲していると云われる人々の文学にあるこの奇怪な顛倒と時代錯誤への屈従、追随こそ、批評家を無力にし、骨抜きにしている。別の云いかたをすると、戦後の批評家の多くは、その人自身、国内亡命をしていた人・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
・・・ お恥しゅうございますが何しろ私もつい顛倒しておりますものですから……ハ? はい、はい。本年はどうもあの方が特別おやかましいということだもんでございますから、本当にもう……。と上気した眼色が察しられる声の様子である。では、どうぞあしから・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・つづいて自身の病気にふれ、子供さんの病気に心痛顛倒する自身の心持に語り及んでそこへ私の名がひきあわされているので、自然読むと、私が「子供を愛したりするとヒューマニズムの線が下向する」と云っているとのことが書かれてある。それに反対の心持として・・・ 宮本百合子 「夜叉のなげき」
・・・彼の眼前で彼の率いた一兵卒が、弾丸に撃ち抜かれて顛倒した。彼はその銃を拾い上げると、先登を切って敵陣の中へ突入した。彼に続いて一大隊が、一聯隊が、そうして敵軍は崩れ出した。ナポレオンの燦然たる栄光はその時から始まった。だが、彼の生涯を通して・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫