・・・麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・隣りに言葉訛り奇妙なる二人連れの饒舌もいびきの音に変って、向うのせなあが追分を歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫の鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・座敷がしんとして庭では轡虫が鳴き出した。居間の時計がねむそうに十時をうったから一通り霊前を片付けて床に入った。座敷で鼠が物をかじる音がするから見に行ったら、床の真中に鏡が薄くくらがりの中に淋しく光っていた。・・・ 寺田寅彦 「祭」
・・・何処かで轡虫の鳴くのが静かな闇に響く。夢から醒めたような心持である。戸袋のすぐ横に、便所の窓の磨硝子から朧な光のさすのに眼をうつすと、痩せたやもりが一疋、雨に迷う蚊を吸うとてか、窓の片側に黒いくの字を画いていた。 その後田舎へ帰ってから・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ともし灯を慕うて桐の葉にとまった轡虫が髭を動かしながらがじゃがじゃがと太十の心を乱した。太十は煙草を吸おうと思って蚊帳の中に起きた。蜀黍が少しがさがさと鳴るように聞えた。太十は蚊帳を透して見た。其時月はすべてが熟睡した頃とこっそり姿を現わし・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ずっと右手に続いた杉林の叢の裡では盛に轡虫が鳴きしきり、闇を劈くように、鋭い門燈の輝きが、末拡がりに処々の夜を照して居る。 父上は、まだ帰って居られなかった。いつもの正面の場処から、母が、隔意のある表情で、「いらっしゃい」と軽く・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
出典:青空文庫