・・・眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺りに至まで、先刻見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀のような恰好で散歩していた、先刻の海岸通りの裏辺りに当るように思えた。 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・が、まだ完全には眠ってしまわないで、夢の初めか、現の終わりかの幻を見ていると、フト彼の顔の辺りに何かを感じた。彼の鋭くとがった神経は針でも通されたように、彼を冷たい沼の水のような現実に立ち返らせた。が、彼は盗棒に忍び込まれた娘のように、本能・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家では、小夜という娘もそこに働いているうちはお竹どんと呼ばれるが、宮中生活のよび名で宮中に召使われているものの名であった紫式部、清・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・ 其処には厚い布団に寝かされて大変背の高くなった叔父の体が在ったけれ共別に変な感じも持たずにその人の後に居ると、顔の辺りに掛けてある白い布をめくりながら、 御覧。と云って身をねじ向けた。 何だろうと思ってのり出した私・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・ 白夜の美しさはレーニングラード、それも雄大なネヴァ河の河岸の辺りの景色が忘れられない。この辺では白夜は一層情感的で、夜なかの十二時ごろやっと日が沈む。河岸を洗ってネヴァの流れる西の方の大都会の屋根屋根の間へ日は沈むのだけれど、窓に佇ん・・・ 宮本百合子 「モスクワ」
・・・身動をなさる度ごとに、辺りを輝らすような宝石がおむねの辺やおぐしの中で、ピカピカしているのは、なんでもどこかの宴会へお出になる処であったのでしょう。奥さまの涙が僕の顔へ当って、奥様の頬は僕の頬に圧ついている中に僕は熱の勢か妙な感じがムラムラ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫