・・・客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、幾度もあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの銚子が、給仕は遁げたし、一人では詰らないから、寝しなに呷ろうと思って、それにも及ばず、・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・動坂を下りて、ずっとゆくと、二股になった道があって、そこに赤い紙をどっさり貼りつけられた古い地蔵さんの立っている辻堂があった。田端の駅へゆくときは、その地蔵のところから左へとって、杉林などが見えるところから又右へ入って、どうにかしてゆくと、・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・その路々王龍が青い桃を阿蘭にやり、歩きながら阿蘭がそれをかじってゆくところ、赤い辻堂の場面、更に子供のために布を買う阿蘭の姿など、作者の女としての同感、同情、思いやりというものが惻々と底にながれ、感傷をおさえた描写の中に脈うっている。バック・・・ 宮本百合子 「パァル・バックの作風その他」
・・・「いいだろう?」 だが、一体これらは皆何のためなのだろう? ゴーリキイは率直にその疑問を呈出した。「何にするんだい?」「辻堂さ、似てるだろう?」そして「雀から聖骸がとれるかもしれないよ。罪科もないのに苦しみを受けた致命者なん・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・檀家であった元小倉藩の士族が大方豊津へ遷ってしまったので、廃寺のようになったのであった。辻堂を大きくしたようなこの寺の本堂の壁に、新聞反古を張って、この坊さんが近頃住まっているのである。 主人は嬉しそうな顔をして、下女を呼んで言い附けた・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫