・・・ それが鞍掛橋の停留場へ一町ばかり手前でしたが、仕合せと通りかかった辻車が一台あったので、ともかくもその車へ這い上ると、まだ血相を変えたまま、東両国へ急がせました。が、その途中も動悸はするし、膝頭の傷はずきずき痛むし、おまけに今の騒動が・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ お袋がいずれ挨拶に来るというので、僕はそのまま辻車を呼んでもらい、革鞄を乗せて、そこを出る時、「少しお小遣いを置いてッて頂戴な」と言うので、僕は一円札があったのを渡した。「二度と再び来るもんか?」こう、僕の心が胸の中で叫んだ。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・おげんはとぼとぼとした車夫の歩みを辻車の上から眺めながら、右に曲り左に曲りして登って行く坂道を半分夢のように辿った。 弟達――二番目の直次と三番目の熊吉とは同じ住居でおげんの上京を迎えてくれた。おげんが心あてにして訪ねて行った熊吉はまだ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫