・・・「何んだ手前たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。這入るのなら早く這入って来う」 紺のあつしをセルの前垂れで合せて、樫の角火鉢の横座に坐った男が眉をしかめながらこう怒鳴った。人間の顔――殊にどこか自分より上手な人・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・父は、私が農学を研究していたものだから、私の発展させていくべき仕事の緒口をここに定めておくつもりであり、また私たち兄弟の中に、不幸に遭遇して身動きのできなくなったものができたら、この農場にころがり込むことによって、とにかく餓死だけは免れるこ・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・見給え、二日経つと君はまた何処かの下宿にころがり込むから。B ふむ。おれは細君を持つまでは今の通りやるよ。きっとやってみせるよ。A 細君を持つまでか。可哀想に。しかし羨ましいね君の今のやり方は、実はずっと前からのおれの理想だよ。もう・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・水は川から灌いで、橋を抜ける、と土手形の畦に沿って、蘆の根へ染み込むように、何処となく隠れて、田の畦へと落ちて行く。 今、汐時で、薄く一面に水がかかっていた。が、水よりは蘆の葉の影が濃かった。 今日は、無意味では此処が渡れぬ、後の橋・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・と円い膝に、揉み込むばかり手を据えた。「もう、見たかい。……ええ、高島田で、紫色の衣ものを着た、美しい、気高い……十八九の。……ああ、悪戯をするよ。」 と言った。小母さんは、そのおばけを、魔を、鬼を、――ああ、悪戯をするよ、と独・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・弟の亀丸も女房をもらってもよい時だけれ共姉がそんな女なので云い込む人もなくて立って居た所が亀丸はとうとう病気になって二十三で死んでしまった。二人の親も世間に見せるかおがないと云って家の中に許り入って居たけれ共とうとう悔死、さぞ口惜しい事だっ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ 住職のことはこの話にそう編み込む必要がないが、とにかく、かれは僕の室へよく遊びに来た、僕もよく遊びに行った。酔って来ると、随分面白い坊主で、いろんなことをしゃべり出す。それとなく、吉弥の評判を聴くと、色が黒いので、土地の人はかの女を「・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その道筋は軌道を越して野原の方へ這入り込む。この道は暗緑色の草がほとんど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った轍の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・と坂田は発奮して、関根名人を指込むくらいの将棋指しになり、大阪名人を自称したが、この名人自称問題がもつれて、坂田は対局を遠ざかった。が、昭和十二年、当時の花形棋師木村、花田両八段を相手に、六十八歳の坂田は十六年振りに対局をした。当時木村と花・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ その位混むと、乗客は次第に人間らしい感覚を失って、自然動物的な感覚になって、浅ましくわめき散らすのだったが、わずかに人間的な感覚といえば、何となくみじめな想いと、そして突如として肚の底からこみ上げて来る得体の知れない何ものかに対する得・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
出典:青空文庫