・・・と云うのは、そっちに近い方に点火したものは、そっちに駈け登る方が早かったから。 秋山は、ベルの中絶するのを待っている間中、十数年来、曾てない腰の痛みに悩まされていた。その時間は二分とはなかった、が彼には二時間にも思えた。 秋山は平生・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・どうかまたお近い内に」 車声は走り初めた。耳門はがらがらと閉められた。 この時まで枯木のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子か・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・己はいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。何だかこの往来、この建物の周囲には、この世に生れてから味わずにしまった愉快や、泣かずに済んだ涙や、意味のないあこがれや、当の知れぬ恋なぞ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・気候に関する菓物の特色をひっくるめていうと、熱帯に近い方の菓物は、非常に肉が柔かで酸味が極めて少い。その寒さの強い国の菓物は熱帯ほどにはないがやはり肉が柔かで甘味がある。中間の温帯のくだものは、汁が多く酸味が多き点において他と違っておる。し・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・畑はすぐ起せるし、森は近いし、きれいな水もながれている。それに日あたりもいい。どうだ、俺はもう早くから、ここと決めて置いたんだ。」と云いますと、一人の百姓は、「しかし地味はどうかな。」と言いながら、屈んで一本のすすきを引き抜いて、その根・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・なぜなら、この四冊の本には、著者の二十年近い生活とその発展のひだがたたまれている。しかもそれは一人の前進的な人間の小市民的インテリゲンツィアからボルシェビキへの成長の過程であり、日本のプロレタリア解放運動とその文学運動の歴史のひとこまでもあ・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・宿場の医者たるに安んじている父の rレジニアション の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながら見えて来た。そしてその時から遽に父を尊敬する念を生じた。 実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここに存じていたのである。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・その代り近いうちに填合せをしようと云うのである。相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で街道のぬかるみを駆けるので、ぴちゃぴちゃ音がした。 その時ツァウォツキイは台所で使う刃物を出した。そしてフランチェン・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「亀山か、近いところにいたんやして、お前何んじゃぞ、それ痩せて! 死神に憑かれたみたいやないか。」「あかん。」「あかんって、どうしたんやぞ。」「医者がもうお前、持たん云いさらしてさ、心臓や。どだいわやや。」「心臓や、それ・・・ 横光利一 「南北」
・・・私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫