・・・もし命が惜しかったら、明日とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが好い」 遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。すると婆さんは驚きでもするかと思いの外、憎々しい笑い声を洩らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「その頃の彼の手紙は、今でも私の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目を根気よく書いてよこしました。今年は朝顔の培養に失敗した・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ もう一度、試みに踏み直して、橋の袂へ乗り返すと、跫音とともに、忽ち鳴き出す。 あまり爪尖に響いたので、はっと思って浮足で飛び退った。その時は、雛の鶯を蹂み躙ったようにも思った、傷々しいばかり可憐な声かな。 確かに今・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・御先祖の霊前に近く、覚悟はよいか、嬉しゅうござんす、お妻の胸元を刺貫き――洋刀か――はてな、そこまでは聞いておかない――返す刀で、峨々たる巌石を背に、十文字の立ち腹を掻切って、大蘇芳年の筆の冴を見よ、描く処の錦絵のごとく、黒髪山の山裾に血を・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・そんな金があるなら、まずうちの借金を返すがええ。――先生、そうではござりませんか?」「そりゃア、叔母さんの言うのももっともです、しかし、まア、男が惚れ込んだ以上は、そうしてやりたくなるんでしょうから――」「吉弥も馬鹿です。男にはのろ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。この工兵士官に預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 職人体の男は、返す言葉がなく、あちらにいってしまいました。 まもなく、五、六人連れの乱暴者がやってきました。そして、いきなり、汚らしいふうをした哀れな子供をなぐりつけました。「おまえだろう、口笛を吹いて、夜中に、黒い鳥を呼んだ・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・もう欲しくないから、昨日、もらったのをも返すよ。」と返したのであります。 すると、空色の着物を着た子供は不審そうな顔つきをして、「なんで、君のお父さんや、お母さんはしかったんだい。」とききますと、正雄さんは、「人から、こんなもの・・・ 小川未明 「海の少年」
・・・と言い返すと、いやそれもあるがと、注がれたビールを一息に飲んで、「――それよりもそんな話ばかし書いているから、いつまでたっても若さがないと言われるんだね」そう言い乍ら突き上げたパナマ帽子のように、簡単に私の痛い所を突いて来た。「いや・・・ 織田作之助 「世相」
・・・自分ひとりなら、無理も云えるのだが、といって、娘を追い返すわけにもいかない。 宿なしの悲しさが、土砂降りの雨のように小沢の心に降り注いで来た。「困ったなア……」 小沢は眉毛まで情けなく濡れ下りながら、呟いた。 長い間、雨の中・・・ 織田作之助 「夜光虫」
出典:青空文庫