・・・このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳んでいた。・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」 オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。「お前さんはパンを知っているのですか?」「何、西国の大名の子たちが、西洋から持・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・己に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」 牧野は険しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。 十「あの白犬が病みついたのは、――そう・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、急にふり返ると、やはりただ幕ばかりが、懶そうにだらりと下っている。そんな事を繰り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭を抛り出すと、そうそうまた舟へ帰って来た。「ところがその晩舟の中に、独・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気の裡に、透なく打った細い杭と見るばかり、幾百条とも知れない、おなじような蛇が、おなじような状して、おなじように、揃って一尺ほどずつ、砂の中から鎌首を擡げて、一斉に空を仰いだのであった。その畝る時、歯か、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。 ああ、春の末でした。 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。 西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・いろいろさまざまの妄想が、狭い胸の中で、もやくやもやくや煮えくり返る。暖かい夢を柔らかなふわふわした白絹につつんだように何ともいえない心地がするかと思うと、すぐあとから罪深い恐ろしい、いやでたまらない苦悶が起こってくる。どう考えたっておとよ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・と、僕がちょっと吉弥に当って、お君をふり返ると、お君は黙って下を向いた。「あたいがいるのがいけなけりゃア、いつからでも出すがいい。へん、去年身投げをした芸者のような意気地なしではない。死んだッて、化けて出てやらア。高がお客商売の料理屋だ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫