・・・ 源叔父の独子幸助海に溺れて失せし同じ年の秋、一人の女乞食日向の方より迷いきて佐伯の町に足をとどめぬ。伴いしは八歳ばかりの男子なり。母はこの子を連れて家々の門に立てば、貰い物多く、ここの人の慈悲深きは他国にて見ざりしほどなれば、子のため・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 何時自分が東京を去ったか、何処を指して出たか、何人も知らない、母にも手紙一つ出さず、建前が済んで内部の雑作も半ば出来上った新築校舎にすら一瞥もくれないで夜窃かに迷い出たのである。 大阪に、岡山に、広島に、西へ西へと流れて遂にこの島・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・但しここに良い生活というのは迷いや慎みや、あるいは罪がない生活という意味ではない。そういうものを持ちながらも正しい生活に達しようとして努力する生活をいうのである。一、よく自然と人生を観察すること。芸術は結局人生の相に対す・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・と、ばあさんは迷い迷って、人ごみの中をようよう公園の方へぬけて来て云った。「そんならなんぞ食うか。」「うらあ鮨が食うてみたいんじゃ。」 両人は鮨屋を探して歩いた。「ここらの鮨は高いんじゃないかしらん。」ようよう鮨屋を探しあて・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・無かった縁に迷いは惹かぬつもりで、今日に満足して平穏に日を送っている。ただ往時の感情の遺した余影が太郎坊の湛える酒の上に時々浮ぶというばかりだ。で、おれはその後その娘を思っているというのではないが、何年後になっても折節は思い出すことがあるに・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想ってみた。時には私は用達のついでに、坂の上の電車路を六本木まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・俺も馬鹿な――大方、気の迷いだらずが――昨日は恐ろしいものが俺の方へ責めて来るぢゃないかよ。汽車に乗ると、そいつが俺に随いて来て、ここの蜂谷さんの家の垣根の隅にまで隠れて俺の方を狙ってる。さあ、責めるなら責めて来いッって、俺も堪らんから火の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・目の迷いかと眸を凝らしたが、やっぱり帆である。しかし藤さんの船はぜひとも前からの白帆と定めたい。遠い分はよく見えぬ。そして、間もなく靄の中に消えてしまうのである。よく見えて永く消えないのが藤さんの船でなければならぬ。 はらはらと風もない・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・青扇は、卵いろのブルウズのようなものを着てナイトキャップをかぶり、妙に若がえって出て来たが、すぐ犬の首をおさえて、この犬は、としのくれにどこからか迷いこんで来たものであるが、二三日めしを食わせてやっているうちに、もう忠義顔をしてよそのひとに・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ はじめこの家にやってきたころは、まだ子供で、地べたの蟻を不審そうに観察したり、蝦蟇を恐れて悲鳴を挙げたり、その様には私も思わず失笑することがあって、憎いやつであるが、これも神様の御心によってこの家へ迷いこんでくることになったのかもしれぬと・・・ 太宰治 「畜犬談」
出典:青空文庫