・・・「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠し・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
食うべき詩 詩というものについて、私はずいぶん長い間迷うてきた。 ただに詩についてばかりではない。私の今日まで歩いてきた路は、ちょうど手に持っている蝋燭の蝋のみるみる減っていくように、生活というものの威力の・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・竜神、竜女も、色には迷う験し候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯弱の微輩。馬蛤の穴へ落ちたりとも、空を翔けるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在のわっぱ。電火、地火、劫火、敵火、爆火、手一つでも消します・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・その出処に迷うなり。ひそかに思うに、著者のいわゆる近代の御伽百物語の徒輩にあらずや。果してしからば、我が可懐しき明神の山の木菟のごとく、その耳を光らし、その眼を丸くして、本朝の鬼のために、形を蔽う影の霧を払って鳴かざるべからず。 この類・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ 大通りは一筋だが、道に迷うのも一興で、そこともなく、裏小路へ紛れ込んで、低い土塀から瓜、茄子の畠の覗かれる、荒れ寂れた邸町を一人で通って、まるっきり人に行合わず。白熱した日盛に、よくも羽が焦げないと思う、白い蝶々の、不意にスッと来て、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・自分の反抗的奮闘の精力が、これだけ強堅であるならば、一切迷うことはいらない。三人の若い者を一人減じ自分が二人だけの労働をすれば、何の苦労も心配もいらぬ事だ。今まで文芸などに遊んでおった身で、これが果してできるかと自問した。自分の心は無造作に・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・予は全く自分のひがみかとも迷う。岡村が平気な顔をして居れば、予は猶更平気な風をしていねばならぬ。こんな馬鹿げた事があるものか。「君此靄は一寸えいなア」「ウン親父が五六日前に買ったのだ、何でも得意がっていたよ」「未だ拝見しないもの・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・人間てものは誰でも誤って邪路に踏迷う事があるが、心から悔悛めれば罪は奇麗に拭い去られると懇々説諭して、俺はお前に顔へ泥を塗られたからって一端の過失のために前途にドンナ光明が待ってるかも解らないお前の一生を葬ってしまいたくない。なお更これから・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・二葉亭に親近するものの多くは鉄槌の洗礼を受けて、精神的に路頭に迷うの浮浪人たらざるを得なかった。中には霊の飢餓を訴うるものがあっても、霊の空腹を充たすの糧を与えられないで、かえって空腹を鉄槌の弄り物にされた。 二葉亭の窮理の鉄槌は啻に他・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・大阪の町を歩いて道に迷うようなことはなかった。ところが、梅田あたりの闇市場では既にして私は田舎者に過ぎない。旅馴れぬ旅行者のように、早く駅前へ出ようとうろうろする許りである。顔見知りもいない。 よしんば知人に会うても、彼もまたキョロキョ・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫