・・・ 前から来るのを、のんびりと待ち合せてゴトン/\と動く、あの毎日のように乗ったことのある西武電車を、自動車はせッかちにドン/\追い越した。風が頬の両側へ、音をたてゝ吹きわけて行った、その辺は皆見慣れた街並だった。 N駅に出る狭い道を・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その三郎がめきめきと延びて来た時は、いつのまにか妹を追い越してしまったばかりでなく、兄の太郎よりも高くなった。三郎はうれしさのあまり、手を振って茶の間の柱のそばを歩き回ったくらいだ。そういう私が同じ場所に行って立って見ると、ほとんど太郎と同・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。」 生きて行く力 いや・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・ 二人連れの上等兵が追い越した。 すれ違って、五、六間先に出たが、ひとりが戻ってきた。 「おい、君、どうした?」 かれは気がついた。声を挙げて泣いて歩いていたのが気恥ずかしかった。 「おい、君?」 再び声はかかった。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 代々木の停留場に上る階段のところで、それでも追い越して、衣ずれの音、白粉の香いに胸を躍らしたが、今度は振り返りもせず、大足に、しかも駆けるようにして、階段を上った。 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・学校の先生らしい一行があとから自分らを追越して行った。 明神池は自分には別に珍しい印象を与えなかった。何となく人工的な感じのする点がこの池を有名にしているかと思われた。しかし、紅葉の季節に見直すといいかもしれない。同じ道を引返して帝国ホ・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 往路に若い男女の二人連れが自分たちの一行を追い越して浅間のほうへ登って行った。「あれは大丈夫だろうか」という疑問がわれわれ一行の間に持ち出された。しかし、男のほうはもちろん女のほうもすっかり板についた登山服姿であり、靴などもかなり時代・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・いつまでも子猫であってほしいという子供らの願望を追い越して容赦もなく生長して行った。 三毛は神経が鋭敏であるだけにどこか気むずかしくてそしてわがままでぜいたくである。そしてすべての挙動にどことなく典雅のふうがある。おそらくあらゆる猫族の・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・新地の絃歌聞えぬが嬉しくて丸山台まで行けば小蒸汽一艘後より追越して行きぬ。 昔の大名それの君、すれちがいし船の早さに驚いてあれは何船と問い給えば御附きの人々かしこまりて、あれはちがい船なればかく早くこそと御答え申せば、さらばそのちがい船・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・女は歩きつかれたわたくしを追越して、早足に歩いて行く。 わたくしは枯蘆の中の水たまりに宵の明星がけいけいとして浮いているのに、覚えず立止って、出来もせぬ俳句を考えたりする中、先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまったが、やがて稲荷・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫