・・・ 粟野さんはどちらかと言えば借金を断られた人のように、十円札をポケットへ収めるが早いか、そこそこ辞書や参考書の並んだ書棚の向うへ退却した。あとにはまた力のない、どこかかすかに汗ばんだ沈黙ばかり残っている。保吉はニッケルの時計を出し、その・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・そいつが中々たくれいふうはつしているから、面白がって前の方へ出て聞いていると、あなたを一つかけて上げましょうと云われたので、そうそう退却した。こっちの興味に感ちがいをする人間ほど、人迷惑なものはない。 家へ帰ったら、留守に来た手紙の中に・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・おまけに、そこから敵の砲塁までは小川もなく、樹木もなく、あった畑の黍は、敵が旅順要塞に退却の際、みな刈り取ってしもたんや。一歩踏み出せば、もう、直ぐ敵弾の餌食は覚悟せにゃならん。聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志で・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・はたから見ると、だんだん退却して行くありさまだ。吉弥の話したことによると、青木は、かれ自身が、「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸命になっている女にまでも謀叛されたりするのだ」と、男泣きに泣いたそ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体漸次に沈没、海水甲板に達せるをもって、やむを得ずボートにおり、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ什器を焼いて退却した。赤旗が退路を遮った。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに伝播していた。また戦争だ。それからどうしたか?…… 雪解・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 彼は、能う限り素早く射撃をつゞけて、小屋の方へ退却した。が、犬は、彼らの退路をも遮っていた。白いボンヤリした月のかげに、始め、二三十頭に見えた犬が、改めて、周囲を見直すと、それどころか、五六十頭にもなっていた。川井と後藤とは、銃がない・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 一度退却した馬占山の黒龍江軍は、再び逆襲を試みるために、弾薬や砲を整え、兵力を集中していた。ロシアは、それを後援している。「支那人朝鮮人」共産軍がブラゴウェチェンスクから増援隊として出動した。そういう噂が、各中隊にもっぱらとなって・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・ 盗賊は落葉の如くはらはらと退却し、地上に舞いあがり、長蛇のしっぽにからだをいれ、みるみるすがたをかき消した。 決闘 それは外国の真似ではなかった。誇張でなしに、相手を殺したいと願望したからである。けれどもその動・・・ 太宰治 「逆行」
・・・わあと言って退却する。実に、たのしそうなのである。私は、泣きべそかいて馬を見ている。あの悪童たちが、うらやましくて、うらやましくて、自分ひとりが地獄の思いであったのだ。いつか私は、この事を或る先輩に言ったところが、その先輩は、それは民衆への・・・ 太宰治 「作家の手帖」
出典:青空文庫