・・・と、大宅太郎光国の恋女房が、滝夜叉姫の山寨に捕えられて、小賊どもの手に松葉燻となる処――樹の枝へ釣上げられ、後手の肱を空に、反返る髪を倒に落して、ヒイヒイと咽んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩もその・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・…… 夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒りそうになるのを、路傍の電信柱の根に縋って、片手喫しに立続ける。「旦那、大分いけますねえ。」 膝掛を引抱いて、せめてそれにでも暖りたそうな・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・味方はワッワッと鬨を作って、倒ける、射つ、という真最中。俺も森を畑へ駈出して慥か二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッという鬨の声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ……旧の処に居る。ハテなと思た。それよりも更と不思議なは、忽・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ ――吾々は「扇を倒にした形」だとか「摺鉢を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・ 田面に水あふれ、林影倒に映れり」十二月二日――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」同二十二日――「雪初めて降る」三十年一月十三日――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈を・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・おんうち、東京でおやしきがお焼けになった方もおありになりましたが、でも幸にいずれもおけがもなくておすみになりましたが、鎌倉では山階宮妃佐紀子女王殿下が御圧死になり、閑院宮寛子女王殿下が小田原の御用邸の倒かいで、東久邇宮師正王殿下がくげ沼で、・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・(庖丁を取り上げ、あさを蹴倒お母さん! つらいわよう。聞いていました。立聞きして悪いと思ったけど、お前の身が案じられて、それで、…… 知っていたわよう。お母さんは、あの襖の蔭で泣いていらした。あたしには、すぐにわかった。だけどお・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ 一層偶然の著しき場合は、例えば鉛筆を尖端にて直立せしめ、これがいずれの方向に倒るるかという場合、あるいは賽を投げて何点が現わるるかというごとき場合なり。これらの場合においても、もしすべての条件がどこまでも精しく与えられおれば結果は必ず・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・盥の置き方から、夜寝る時の寝衣の袖の通し方まで、無意識な定型を繰返している吾人の眼は、如何に或る意味で憐れな融通のきかきぬものであるかという事を知るための、一つの面白い、しかも極めて簡単な実験は、頭を倒にして股間から見馴れた平凡な景色を覗い・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・家中の者皆障子を蹴倒して縁側へ駈け出た。後で聞けば、硫黄でえぶし立てられた獣物の、恐る恐る穴の口元へ首を出した処をば、清五郎が待構えて一打ちに打下す鳶口、それが紛れ当りに運好くも、狐の眉間へと、ぐっさり突刺って、奴さん、ころりと文句も云わず・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫