・・・求馬はその頃から人知れず、吉原の廓に通い出した。相方は和泉屋の楓と云う、所謂散茶女郎の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであっ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・勿論半之丞がお松に通いつめていたり、金に困っていたりしたことは全然「な」の字さんにはわからなかったのでしょう。「な」の字さんの話は本筋にはいずれも関係はありません。ただちょっと面白かったことには「な」の字さんは東京へ帰った後、差出し人萩野半・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 音が通い、雫を帯びて、人待石――巨石の割目に茂った、露草の花、蓼の紅も、ここに腰掛けたという判官のその山伏の姿よりは、爽かに鎧うたる、色よき縅毛を思わせて、黄金の太刀も草摺も鳴るよ、とばかり、松の梢は颯々と、清水の音に通って涼しい。・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。 昏んだ目は、昼遊びにさえ、その燈に眩しいので。 手足の指を我と折って、頭髪を掴んで身悶えしても、婦は寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・省作はわれ自らもまた自然中の一物に加わり、その大いなる力に同化せられ、その力の一端がわが肉体にもわが精神にも通いきて、新たなる生命にいきかえったような思いである。おとよさんやおはまや、晴ればれと元気のよい、毛の先ほども憎気のない人たちと打ち・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・新内の若辰が大の贔負で、若辰の出る席へは千里を遠しとせず通い、寄宿舎の淋しい徒然には錆のある声で若辰の節を転がして喝采を買ったもんだそうだ。二葉亭の若辰の身振声色と矢崎嵯峨の屋の談志の物真似テケレッツのパアは寄宿舎の評判であった。嵯峨の屋は・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・が、私はそれよりも、沖に碇泊した内国通いの郵船がけたたましい汽笛を鳴らして、淡い煙を残しながらだんだん遠ざかって行くのを見やって、ああ、自分もあの船に乗ったら、明後日あたりはもう故郷の土を踏んでいるのだと思うと、意気地なく涙が零れた。海から・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・千日前の歌舞伎座の横丁――昔中村鴈治郎が芝居への通い路にしていたとかで鴈治郎横丁と呼ばれている路地も、以前より家数が多くなったくらいバラックが建って、食傷路地らしく軒並みに飲食店だ。などという話を見聴きすれば、やはりなつかしいが、しかし、・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いたので、別府の温泉宿に泊り、そこから毎朝一番の汽車で小倉通いをすることにした。夜、宿へつくとくたくたに疲れていたので、寺田は女中にアルコールを貰ってメタボリンを注射した。一代が死んだ当座寺田は一代の想い出・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・膳の通い茶の通いに、久しく馴れ睦みたる婢どもは、さすがに後影を見送りてしばし佇立めり。前を遶る渓河の水は、淙々として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶇か。 朝夕のたつきも知らざりし山中も、年々の避暑の客に思わぬ煙を増して、瓦葺きの家も木・・・ 川上眉山 「書記官」
出典:青空文庫