目のあらい簾が、入口にぶらさげてあるので、往来の容子は仕事場にいても、よく見えた。清水へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。金鼓をかけた法師が通る。壺装束をした女が通る。その後からは、めずらしく、黄牛に曳かせた網代車・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ 毎日学校へ通うのに汽車へ乗るのさえかまわなければ。」「あなたの方じゃ少し遠すぎるんです。あの辺は借家もあるそうですね、家内はあの辺を希望しているんですが――おや、堀川さん。靴が焦げやしませんか?」 保吉の靴はいつのまにかストオヴの・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・ 仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から倶知安に通う道路添いに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たっても齢をとらないで、働きも甲斐なそうに見えたが、子供の多い事だけは農場・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 諸君が随処、淡路島通う千鳥の恋の辻占というのを聞かるる時、七兵衛の船は石碑のある処へ懸った。 いかなる人がこういう時、この声を聞くのであるか? ここに適例がある、富岡門前町のかのお縫が、世話をしたというから、菊枝のことについて記す・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 真白な薄の穂か、窓へ散込んだ錦葉の一葉、散際のまだ血も呼吸も通うのを、引挟んだのかと思ったのは事実であります。 それが紫に緋を襲ねた、かくのごとく盛粧された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・まえはわずかに人の通うばかりにせまい。そこに着物などほしかけて女がひとり洗濯をやっていた。これが予のいまおる宿である。そして予はいま上代的紅顔の美女に中食をすすめられつついる。予はさきに宿の娘といったが、このことばをふつうにいう宿屋の娘の軽・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・――先生、この子がおッ師匠さんのところへ通う時ア、困りましたよ。自分の身に附くお稽古なんだに、人の仕事でもして来たようにお駄賃をくれいですもの。今もってその癖は直りません、わ。何だというと、すぐお金を送ってくれい――」「そうねだりゃアし・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・六十三という条、実はマダ還暦で、永眠する数日前までも頭脳は明晰で、息の通う間は一行でも余計に書残したいというほど元気旺勃としていた精力家の易簀は希望に輝く青年の死を哀むと同様な限りない恨事である。・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・かつ中学へ通う小さい弟と一緒に暮していたから自然謹慎していた。緑雨の耽溺方面の消息は余り知らぬから、あるいはその頃から案外コソコソ遊んでいたかも知れないが、左に右く表面は頗る真面目で、目に立つような遊びは一切慎しみ、若い人たちのタワイもない・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・窓は閉めて、空気の通う所といっては階子の上り口のみであるから、ランプの油煙や、人の匂や、変に生暖い悪臭い蒸れた気がムーッと来る。薄暗い二間には、襤褸布団に裹って十人近くも寝ているようだ。まだ睡つかぬ者は、頭を挙げて新入の私を訝しそうに眺めた・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫