・・・その上はただ清水寺の観世音菩薩の御冥護にお縋り申すばかりでございます。」 観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲らせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据えると、首を振り振りたしなめ出した。「お気をつけなさい。・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございませ・・・ 芥川竜之介 「蜘蛛の糸」
・・・お栄はそれを見ると同時に、急にこおろぎの鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖くなって、思わず祖母の膝へ縋りついたまま、しくしく泣き出してしまいました。が、祖母はいつもと違って、お栄の泣くのにも頓着せず、その麻利耶観音の御宮の前に坐りながら、恭し・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・所が泣き伏した女を後に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・――処へ、土地ところには聞馴れぬ、すずしい澄んだ女子の声が、男に交って、崖上の岨道から、巌角を、踏んず、縋りつ、桂井とかいてあるでしゅ、印半纏。」「おお、そか、この町の旅籠じゃよ。」「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・助かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ船に載せて見て、咽喉を突かれてでも、居はしまいか、鳩尾に斬ったあとでもあるまいか、ふと愛惜の念盛に、望の糸に縋りついたから、危ぶんで、七兵衛は胸が轟いて、慈悲の外何の色をも交えぬ老の眼は塞いだ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・いきなり縋り寄って、寝ている夜具の袖へ手をかけますと、密と目をあいて私の顔を見ましたっけ、三日四日が間にめっきりやつれてしまいました、顔を見ますと二人とも声よりは前へ涙なんでございます。 物もいわないで、あの女が前髪のこわれた額際まで、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ と、ミリヤアドの枕の許に僵れふして、胸に縋りてワッと泣きぬ。 誓えとならば誓うべし。「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」 ミリヤアドは目を塞ぎぬ。また一しきり、また一しきり、刻むがごとき戸外の風。 ・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ が、一刻も早く東京へ――唯その憧憬に、山も見ず、雲も見ず、無二無三に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖に着いた時は、杖という字に縋りたい思がした。――近頃は多く板取と書くのを見る。その頃、藁家の軒札には虎杖村と書いてあった。 ・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・八人の船子は効無き櫓柄に縋りて、「南無金毘羅大権現!」と同音に念ずる時、胴の間の辺に雷のごとき声ありて、「取舵!」 舳櫓の船子は海上鎮護の神の御声に気を奮い、やにわに艪をば立直して、曳々声を揚げて盪しければ、船は難無く風波を凌ぎ・・・ 泉鏡花 「取舵」
出典:青空文庫