・・・ いつもかかることのある際には、一刀浴びたるごとく、蒼くなりて縋り寄りし、お貞は身動だもなし得ざりき。 病者は自ら胸を抱きて、眼を瞑ること良久しかりし、一際声の嗄びつつ、「こう謂えばな、親を蹴殺した罪人でも、一応は言訳をすること・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ と小春は襟も帯も乱れた胸を、かよわく手でおさえて、片手で外套の袖に縋りながら、蒼白な顔をして、涙の目でなお笑った。「おほほほほほ、堪忍、御免なすって、あははははは。」 妙齢だ。この箸がころんでも笑うものを、と憮然としつつ、駒下・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・と呼吸せわしく、お香は一声呼び懸けて、巡査の胸に額を埋めわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりに縋り着きぬ。蔦をその身に絡めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳し、水をきっと瞰下ろしたる、ときに寒冷・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・行っちゃ帰り、行っちゃ帰り、ちょうど二十日の間、三七二十一日目の朝、念が届いてお宮の鰐口に縋りさえすれば、命の綱は繋げるんだけれども、婆に邪魔をされてこの坂が登れないでは、所詮こりゃ扶からない、ええ悔しいな、たとえ中途で取殺されるまでも、お・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・呼吸を殺して従い行くに、阿房はさりとも知らざる状にて、殆ど足を曳摺る如く杖に縋りて歩行み行けり。 人里を出離れつ。北の方角に進むことおよそ二町ばかりにて、山尽きて、谷となる。ここ嶮峻なる絶壁にて、勾配の急なることあたかも一帯の壁に似たり・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・極度に気が弱って、いまは、無智な頑迷の弟子たちにさえ縋りつきたい気持になっているのにちがいない。可哀想に。あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。その有様を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽が喉につき上げて来るのを覚えた。矢庭にあの・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・壁に凭れ、柱に縋り、きざな千鳥足で船室から出て、船腹の甲板に立った。私は目をみはった。きょろきょろしたのである。佐渡は、もうすぐそこに見えている。全島紅葉して、岸の赤土の崖は、ざぶりざぶりと波に洗われている。もう、来てしまったのだ。それにし・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・何が、だってだ、そんなに強く叱咤されても、一向に感じないみたいにニタニタと醜怪に笑って、さながら、蹴られた足にまたも縋りつく婦女子の如く、「それでは希望が無くなりますもの。」男だか女だか、わかりやしない。「いったい私は、どうしたらいいのかな・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・いつまでも墓に縋りついてはならぬ。「もし爾の右眼爾を礙かさば抽出してこれをすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我らは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰う、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 縋りつくようにきかれた男は、苦笑ときの毒さとを交ぜてぼんやり答えている。「困っちゃったわ、全く。今日はじめて出たのに、こんな目に会って……」 半分啜り上げるような早口で歎く娘は、空のリュックを吊って前へうしろへ揺られているので・・・ 宮本百合子 「一刻」
出典:青空文庫