・・・俺だちはその声が遠くなり、聞えなくなる迄、足踏みをやめなかった。 出廷 寒い冬の朝、看守が覗きから眼だけを出して、「今日は出廷だぜ。」 と云った。 飯を食ってから、俺は監房を出て、看守の控室に連れて行かれ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・るるを取附きの浮世噺初の座敷はお互いの寸尺知れねば要害厳しく、得て気の屈るものと俊雄は切り上げて帰りしがそれから後は武蔵野へ入り浸り深草ぬしこのかたの恋のお百度秋子秋子と引きつけ引き寄せここらならばと遠くお台所より伺えば御用はないとすげなく・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚の女の子の背丈までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九文の足袋をはいた。 四人ある私の子供の中で、身長の発育にかけては三郎がい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・するともうかなり遠くへ来たと思うときに、馬がふいに、口をきいて、「ウイリイさん、お腹が減ったら私の右の耳の後へ手をおあてなさい。のどがかわいたら私の左の耳の後をおさわりなさい。」と、人間の通りの言葉でこう言いました。ウイリイはびっくりし・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ そんなとき、二階の西洋間のソファにひとり寝ころんで、遠く兄たち二人の声色を聞き、けッと毒笑しているのが、三男でありました。この兄は美術学校にはいっていたのですが、からだが弱いので、あまり塑像のほうへは精を出さず、小説に夢中になって居り・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ チルナウエルの旅程が遠くなればなる程、跡に残っている連中の悪口はひどくなる。もう幾月か立ったので、なんに附けても悪く言う。葉書が来ない。そりゃ高慢になった。来た。そりゃ見せびらかす。チルナウエルの身になっては、どうして好いか分からない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・黄いろく色ついた稲、それにさし通った明るい夕日、どこか遠くを通って行く車の音、榛の木のまばらな影、それを見ると、そこに小林君がいて、そして私と同じようにしてやはり、その野の夕日を眺め、荷車の響きをきいているように思った。「悠々たる人生だ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとする・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・あかるい二階の障子窓から、マンドリンをひっかきながら、外国語の歌をうたっている古藤の声や、福原や、浅川のわらい声が、ずッとちがった、遠くの世界からのようにきこえていた。 三「社会問題大演説会」は、ひどく不人気だった。・・・ 徳永直 「白い道」
・・・戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるような好風景の残っていたのを知ったのは、全く思い掛けない仕合せであった。 わたくしは近年市街と化した多摩川沿岸、また荒川沿岸の光景から推察して、江戸川東岸の郊外・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫