・・・赤が吠える声は忽ちに遠くなって畢う。頬白が桑の枝から枝を渡って懶げに飛ぶのを見ると赤は又立ちあがって吠える。桑畑から田から堀の岸を頬白が向の岸へ飛んでなくなるまでは吠える。そうして赤は主人を見失うのである。そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼る。 入口に掛けたる厚き幕は総に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈高き一人の男があらわれた。モー・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・その中、彼は明日遠くへ行かねばならぬというので、早く帰った。多くの人々は彼を玄関に見送った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消え去った。 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・その各の人の装幀の価値に応じて、より浅く、またより深く、より自己に近く、また自己に遠く。 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られているのですもの。 あなたが、若し労働者だったら、私にお返事下さいね。その代り、私の恋人の着ていた仕事着の裂を、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがそうなのですよ。この裂には石の粉と、あ・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・と、遠くから呼んだ者がある。 見ると向う廊下の東雲の室の障子が開いていて、中から手招ぎする者がある。それは東雲の客の吉さんというので、小万も一座があッて、戯言をも言い合うほどの知合いである。「吉里さん、後刻に遊びにおいでよ」と、小万・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地び・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ あるいは一人と一人との私交なれば、近く接して交情をまっとうするの例もなきに非ざれども、その人、相集まりて種族を成し、この種族と、かの種族と相交わるにいたりては、此彼遠く離れて精神を局外に置き遠方より視察するに非ざれば、他の真情を判断し・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 今、実例をツルゲーネフに取ってこれを云えば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である、春も初春でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度桜花が爛と咲き乱れて、稍々散り初めようという所だ、遠く霞んだ中空に、美しくおぼろおぼろとした・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・初めは遠く、次第に近く、終にはその音暖かに充ち渡りて、壁隣の部屋より聞ゆる如音楽だな。何だか不思議に心に沁み入るような調べだ。あの男が下らぬ事を饒舌ったので、己まで気が狂ったのでもあるまい。人の手で弾くヴァイオリンからこんな音の出るのを聞い・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫