・・・着ているのは黒の背広であるが、遠方から一見した所でも、決して上等な洋服ではないらしい。――その老紳士が、本間さんと同時に眼をあげて、見るともなくこっちへ眼をやった。本間さんは、その時、心の中で思わず「おや」と云うかすかな叫び声を発したのであ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」「憚り様ね。」「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」「何ね、」「貴下、そのを、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」 謹さんも莞爾して、「お話し・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・然るに先方は既に一家を成した大家であるに、ワザワザ遠方を夜更けてから、挨拶に来られたというは礼を尽した仕方で、誠に痛み入って窃に赤面した。 早速社へ宛てて、今送った原稿の掲載中止を葉書で書き送ってその晩は寝ると、翌る朝の九時頃には鴎外か・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・その頃は電車のなかった時代だから、緑雨はお抱えの俥が毎次でも待ってるから宜いとしても、こっちはわざわざ高い宿俥で遠方まで出掛けるのは無駄だと思って、近所の安西洋料理にでも伴れて行こうもんなら何となく通人の権威を傷つけられたというような顔をし・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・その男にはわたくしが好い加減な事を申して、今明日の間遠方に参っていさせるように致しました。」 この文句の次に、出会うはずの場所が明細に書いてある。名前はコンスタンチェとして、その下に書いた苗字を読める位に消してある。 この手紙を書い・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「そのお姉さんは、いまどうしていなさるの?」と、のぶ子は、お母さまに問いました。「遠方へ、お嫁にいってしまわれたのよ。」と、お母さまも、その娘さんのことを思い出されたように、目を細くしていわれました。「遠方へってどこなのですか。・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・と、ちょうど我が子が遠方から帰ってきたように、しんせつにしてくださいました。 年子は、先生の姿が見えないのを、もどかしがっていると、お母さんは、おちついた態度で、静かに、先生は、もうこの世の人でないこと、なくなられてから、はや、半年あま・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ それでも、さすがに金がなくなって来ると、あわてて家政婦に行かせるのだが、しかし、払出局が指定されていて、その局が遠方にある時は、もう家政婦の手には負えない。六十八歳、文盲、電車にも一人で乗れないという女である。そんな家政婦は取り変えれ・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ どこに住んでいるのかなどと、根掘りそこのお内儀にきくと、なんでもここから一里半、市内電車の終点から未だ五町もある遠方の人で、ゆで玉子屋の二階に奥さんと二人で住んでいるらしい。その奥さんというのが病気だから、その日その日に追われて、昼間・・・ 織田作之助 「雪の夜」
出典:青空文庫