・・・そして、この風土特種の感情を遺憾なく発揮する処に、凡ての大なる芸術の尽きない生命が含まれるのではあるまいか。 雪の降る最中、自分はいつものように霊廟を訪ねた事があった。屋根に積った真白な雪の間から、軒裏を飾る彫刻の色彩の驚くばかり美しく・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ これらの条項を遺憾なく揃えるためには過去の文学を材料とせねばならぬ。過去の批評を一括してその変遷を知らねばならぬ。したがって上下数千年に渉って抽象的の工夫を費やさねばならぬ。右から見ている人と左から眺めている人との関係を同じ平面にあつ・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・い方苦笑にあらず、冷笑にあらず、微笑にあらず、カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依托笑なり、この依托笑をするためにこの巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、遺憾ながらこれを考究する暇がなかった、・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・然るに此女大学の全編、曾て一語も女子智育の要に論及したることなきは遺憾と言う可し。扨又本章中、人を誹り偽を言う可らず、人の謗を伝え語る可らず云々は、固より当然のことにして、特に婦人に限らず男子に向ても警しむ可き所のものなれば、評論を略す。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・わたくしはあなたを遺憾なくはっきり拝することが出来ました。わたくしは胸が裂けるように動悸がいたしました。そしてあなたが好きになりました。やはり十六年前の青年よりは今のあなたの方が好きだと存じました。 あなたのような種類の人、あなたのよう・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・に匍匐ならびをろがみ奉る雲の上人天皇の大御使と聞くからにはるかにをがむ膝をり伏せて 勅使をさえかしこがりて匍匐いおろがむ彼をして、一たび二重橋下に鳳輦を拝するを得せしめざりしは返すがえすも遺憾のことなり。都にのぼりて・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・多少御実験などもお話になりましたが実は遺憾乍らそれはみな実験になって居りません。 動物は衝動と本能ばかりだと仰っしゃいましたがまあそうして置きます。その本能や衝動が生きたいということで一杯です。それを殺すのはいけないとこれだけでお答には・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・それに対して女が遺憾に思う気持と、男が遺憾に思っている気持とを互に知りあい信じあうこと、そして遺憾のない人間の生き方が、一つでも殖える可能のある社会条件を自分たちの一生のうちにつくってゆこうとする協力、人間は歴史的な存在であるから、私たちの・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・庭の方を見て、海が見えないのが遺憾だと云ったり、掛物を見て書画の話をしたりする。石田は床の間に、軍人に賜わった勅語を細字に書かせたのを懸けている。これを将校行李に入れてどこへでも持って行くばかりで、外に掛物というものは持っていないのである。・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・ことに女の体の清らかな美しさを遺憾なく発揮した所は嘆賞に価する。第三に、日本画で現代の浴室を、しかも全裸の女を描き得たということは、一種の革新である。現代に題材を取っても、できるだけ詩的な、現代離れのしたものを選みたがる日本画家の中にあって・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫