・・・ところがある日葺屋町の芝居小屋などを徘徊して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣えたまま、もう火のはいった行燈の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・のお松に一通の遺書を残したまま、突然風変りの自殺をしたのです。ではまたなぜ自殺をしたかと言えば、――この説明はわたしの報告よりもお松宛の遺書に譲ることにしましょう。もっともわたしの写したのは実物の遺書ではありません。しかしわたしの宿の主人が・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・彼は母や弟にそれぞれ遺書を残していた。彼に罰を加えた甲板士官は誰の目にも落ち着かなかった。K中尉は小心ものだけに人一倍彼に同情し、K中尉自身の飲まない麦酒を何杯も強いずにはいられなかった。が、同時にまた相手の酔うことを心配しずにもいられなか・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を飜さなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるの・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・……それだとどこで遺書が出来ます。――轢かれたのは、やっと夜の白みかかった時だっていうんですもの。もっとも(幽そうかいてもあるんですけれども。一旦座敷へ帰ったんです。一生懸命、一大事、何かの時、魂も心も消えるといえば、姿だって、消えますわ。・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 遺書にも、あったそうです。――ああ、恥かしいと思ったばかりに――」「察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の女性たちは、拷問の笞、火水の責にも、断じて口を開かない時、ただ、衣を褫う、肌着を剥ぐ、裸体・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 墓銘とか辞世とか遺書とかいうものを、読むのを私は好まない。死ということは甚だ重要だから、何か書いて残したい気持はよく判るし、せめてそれによってやがて迫る鉛のような死の沈黙の底を覗く寂しさを、まぎらわしたいという気持も判るのだが、しかし・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・その戦死した夫の遺書には、「再婚せんと欲すれば再婚も可なり。此の世に希望なくば潔く自決すべし」と書いてあった。そして未亡人は死を選んだのであった。私は「此の世に希望なくば」云々と書き得たことが如何にこの夫婦の平常の愛の結合の・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・女房の遺書の、強烈な言葉を、ひとつひとつ書き写している間に、異様な恐怖に襲われた。背骨を雷に撃たれたような気が致しました。実人生の、暴力的な真剣さを、興覚めする程に明確に見せつけられたのであります。たかが女、と多少は軽蔑を以て接して来た、あ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・「けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草・・・ 太宰治 「十五年間」
出典:青空文庫