・・・洋一はそろそろ不安になった。遺言、――と云う考えも頭へ来た。「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」 やっと母は口を開いた。「叔母さんもいるし、――今し方姉さんも来た。」「叔母さんにね、――」「叔母さんに用があるの?」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「それはトックの遺言状ですか?」「いや、最後に書いていた詩です。」「詩?」 やはり少しも騒がないマッグは髪を逆立てたクラバックにトックの詩稿を渡しました。クラバックはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しか・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を飜さなかった。それは病菌をお前・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・難くて、臨終の際まで黙し候さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替相成らず候あわれ犠牲となりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、斯の遺言を認め候時の拙者が心中の苦痛を以て、・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・森に墓銘を書かせろと遺言状に書いて置いてもイイ、」と真顔になっていった。 一度冠を曲げたら容易に直す人でないのを知ってるからその咄はそれ切り打切とした。が、万一自分が鴎外に先んじたらこの一場の約束の実現を遺言するはずだったが、鴎外が死ん・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・葬儀は遺言だそうで営まなかったが、緑雨の一番古い友達の野崎左文と一番新らしい親友の馬場孤蝶との肝煎で、駒込の菩提所で告別式を行った。緑雨の竹馬の友たる上田博士も緑雨の第一の知己なる坪内博士も参列し、緑雨の最も莫逆を許した幸田露伴が最も悲痛な・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・その生涯をことごとく述べることは今ここではできませぬが、この女史が自分の女生徒に遺言した言葉はわれわれのなかの婦女を励まさねばならぬ、また男子をも励まさねばならぬものである。すなわち私はその女の生涯をたびたび考えてみますに、実に日本の武士の・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 為さんはその顔を覗くようにして、「お上さん、親方は何だそうですね、お上さんに二度目の亭主を持つように遺言しなすったんだってね?」「それがどうしたのさ?」「どうもしやしませんが、親方もなかなか死際まで粋を利かしたもので……それじ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代の対局に「阿呆な将棋をさし」てしまった坂田三吉が後世に残したのは、結局この「銀が泣いてる」という一句だけであった。一時は将棋盤の八十一の桝も坂田には狭すぎる、といわれるほど・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・自分の死んだあと、全集を出すなと遺言した作家は何人いるだろうか。 謙遜は美徳であると知っていても、結局は己惚れの快感のもつ誘惑に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあ・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
出典:青空文庫