・・・勿論東京の山の手の邸宅に住んでいるのですね。背のすらりとした、ものごしの優しい、いつも髪は――一体読者の要求するのはどう云う髪に結った女主人公ですか? 主筆 耳隠しでしょう。 保吉 じゃ耳隠しにしましょう。いつも髪を耳隠しに結った、・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ですから彼は帰朝すると間もなく、親の代から住んでいる両国百本杭の近くの邸宅に、気の利いた西洋風の書斎を新築して、かなり贅沢な暮しをしていました。「私はこう云っている中にも、向うの銅板画の一枚を見るように、その部屋の有様が歴々と眼の前へ浮・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れはつまごを脱いでから、我れにもなく手拭を腰から抜いて足の裏を綺麗に押拭った。澄んだ水の表面の外に、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・今日の上流社会の邸宅を見よ、何処にも茶室の一つ位は拵らえてある、茶の湯は今日に行われて居ると人は云うであろう、それが大きな間違である、それが茶の湯というものが、世に閑却される所以であろう、いくら茶室があろうが、茶器があろうが、抹茶を立て・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 沼南が今の邸宅を新築した頃、偶然訪問して「大層立派な御普請が出来ました、」と挨拶すると、沼南は苦笑いして、「この家も建築中から抵当に入ってるんです」といった。何の必要もないのにそういう世帯の繰廻しを誰にでも吹聴するのが沼南の一癖であっ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ これについて、富豪の宏大なる邸宅、空地は、市内処々に散在する。彼等の中には、他に幾つも別荘を所有する者もあって、たゞ一つという訳でなく、所有欲より、すべての山林、畑地の名儀にて登記し、公然、脱税せるものもあるのだ。かりに、これを借りる・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・ 上本町に豪壮な邸宅を構えて、一本一万三千円という木を植えつけたのは良いとして、来る人来る人をその木の傍へ連れて行き、「――こんな木でも、二万円もするんですからな、あはは……」「――いっそ木の枝に『この木一万三千円也』と書いた札・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・文楽は小屋が焼け人形衣裳が焼け、松竹会長の白井さんの邸宅や紋下の古靱太夫の邸宅にあった文献一切も失われてしまったので、もう文楽は亡びてしまうものと危まれていたが、白井さんや古靱太夫はじめ文楽関係者は罹炎名取である尚子さんは、私に語った。因み・・・ 織田作之助 「起ち上る大阪」
・・・それは細いだら/\の坂路の両側とも、石やコンクリートの塀を廻したお邸宅ばかし並んでいるような閑静な通りであった。無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のよう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ある時には自分が現在、広大な農園、立派な邸宅、豊富な才能、飲食物等の所有者であるような幻しに浮かされたが、また神とか愛とか信仰とかいうようなことも努めて考えてみたが、いずれは同じく自分に反ってくる絶望苛責の笞であった。そして疲れはてては咽喉・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫