・・・ 一一 郵便箱 僕の家の門の側には郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母は日の暮れになると、かわるがわる門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りを眺めたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 私たちの家では、坂の下の往来への登り口にあたる石段のそばの塀のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配達を受けることにしてある。取り出して来て見ると、一日として何か起こっていない日はなかった。あの早川賢が横死を遂げた際・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ あくる日マツ子は、私のうちの郵便箱に、四つに畳んだ西洋紙を投げこんでいた。眠れず、私はその朝、家人よりも早いくらいに寝床から脱けだし、歯をみがきながら、新聞を取りに出て、その紙きれを見つけたのだ。紙きれには、こう書いていた。「あな・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・ 入りしなに郵便箱をあけると桃色の此頃よく流行る様な封筒と中実を一緒にした様なものが自分の処へ来て居た。 裏には京子とあんまり上手くない手で書いてある。 あっちこっち返して見ながら、こんなやすっぽい絵なんかのぬりたくってあるもの・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・十八の正月に『倫敦塔』を読んで以来書きたかった手紙を、私は二十五の秋にやっと先生にあてて書いて、それを郵便箱に投げ入れてから芝居に行った。私の胸にはまだその手紙を書いた時の興奮が残っていた。その時に廊下で先生に紹介された。それまでかつて芝居・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫