・・・しかしK君やS君は時々「我等の都会に対する郷愁」と云うものを感じています。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雑です。M子さん親子は貴族主義者です。従ってこう云う山の中に満足している訣はありません。しかしその不満の中に満足を感じている・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起していた。 僕は九時にでもなり次第、或雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。机の上に置いた鞄の中へ本や原稿を押しこみながら。 六・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・雲を見、その下に横わる曠野を想い、流るゝ河を眼に描き、さらに生活する人々を考える時、郷愁豊かなる民謡の自ら念頭に浮ぶを覚える。永遠に、人は、土を慕い、自由を求めてやまないのだ。一切の虚偽を破壊するものは、常に、心の底に流れる、この単純化のロ・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・が、やはりテクテクと歩いて行ったのは、金の工面に日の暮れるその足で、少しでも文子のいる東京へ近づきたいという気持にせきたてられたのと、一つには放浪への郷愁でした。 そう言えば、たしかに私の放浪は生れたとたんにもう始まっていました……。・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・青年は郷愁と孤独に堪えかねて、思わず一つの言葉を叫んだ、それが「キャッキャッ」というのである、それまでアラビヤには人間の言葉というものがなかった、だからこの「キャッキャッ」という言葉は、アラビヤではじめて作られた言葉であり、その後作られたア・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ 再び階段を登って行ったとき、新吉は人間への郷愁にしびれるようになっていた。そして、「世相」などという言葉は、人間が人間を忘れるために作られた便利な言葉に過ぎないと思った。なぜ人間を書こうともせずに、「世相」を書こうとしたのか、新吉はは・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・佐伯は思い掛けない郷愁をそそられ、毎日この道を通ろうと心に決めた。三丁行くと道は突き当った。左手は原っぱで人夫が二三人集って塵埃の山を焼いていた。咳をしながら右へ折れて三間ばかし行くといきなりアスファルトの道が横に展けていてバスの停留所があ・・・ 織田作之助 「道」
・・・ジプシイの郷愁がすすり泣くようなメロディとなって、弦から流れた。九つの少女の腕が弾いているとは思えぬくらい力強い音であった。 それは、かつて寿子のヴァイオリンから聴けなかったものだった。いや、教えている庄之助自身、このような音が一度だっ・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・ これが郷愁というものだとはその時には気が付かなかった。 ハルツの旅 地理学の学生の仲間にはいって、ハルツを見に行った。霧の深い朝であった。霧が晴れかかった時に、線路の横の畑の中に一疋の駄馬がしょんぼり立ってい・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・その後故郷を離れて熊本に住み、東京に移り、また二年半も欧米の地を遍歴したときでも、この中学時代の海水浴の折に感じたような郷愁を感じたことはなかったようである。一つにはまだ年が行かない一人子の初旅であったせいもあろうが、また一つには、わが家が・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
出典:青空文庫