・・・のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着するのが常習になってしまった。 ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物うくて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・比較にならぬほど上等であるために却って正月の雑煮の気分が出なくて、淡い郷愁を誘われるのであった。 東京へ出て来て汁粉屋などで食わされた雑煮は馴れないうちは清汁が水っぽくて、自分の頭にへばりついている我家の雑煮とは全く別種の食物としか思わ・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。 七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁を醸す。郷愁ほど情緒の美しきものはない。長くわたくしが巴里の空を忘れ得ぬのもこの情緒のなすところであろう。 巴里は再度兵乱に遭ったが依然として恙なく存在している。春ともなればリラの・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 図らぬ時に、私の田園への郷愁が募った。いつか、檜葉の梢の鳥は去って、庭の踏石の傍に、一羽の雀が降りて居る。先刻、私が屋根に認めた一群のものらしい。チョン、チョンチョンと一束にとび、しきりに粟を拾って居る。私は仄かな悦びを覚えた。けれど・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 文学に人間らしさを探ねる本来の欲求は、それら、一つ一つの扉をたたき、しかも、何かみたされない心の郷愁を、子供の世界に憩わせようとしたと思える。 けれども、そこも文学にとって遂の棲家であり得なかった。現実は健やかであると思う。子供た・・・ 宮本百合子 「子供の世界」
・・・『文学界』六月号所載川上喜久子氏の「郷愁」という作品などは、文学の大衆化が誤って理解された芸術的実践の一つの不幸な標本を示していると思われる。 ひとくちに、大衆と云っても、その規定のしかたはいくつかあると思う。少くとも、大衆が低い文化を・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
・・・ 荒んだ感情を持たない者は、恐らく十人が十人、郷愁に掛って居ると申せましょう。 別れて来た愛人を想う、愛すべき若者になって居ると思います。 従って、彼を中心として、後方に注がれる憧憬は、反映して、彼の目前に現われる物象への憧憬と・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・君が代が歌そのものとして、歌う子供たちにわけのわからない義務感しか与えていないとすれば、君が代に対するとしよりの郷愁は、もう一度考え直されなければなるまい。 修身科をおくかおかないかも論議まちまちで、修身がほしいと考える人々でさえも、教・・・ 宮本百合子 「修身」
・・・ 文学の文学らしさを求めるこの郷愁は、素材主義的な長篇に対置した希望で短篇小説に眼を向けさせ、岡田三郎の伸六という帰還兵を主人公とする連作短篇なども現れた。また十四年度に著しい現象とされた婦人作家の作品への好意と興味とも、一面ではそこに・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
出典:青空文庫