私の郷里、小豆島にも、昔、瀬戸内海の海賊がいたらしい。山の上から、恰好な船がとおりかゝるのを見きわめて、小さい舟がする/\と島かげから辷り出て襲いかゝったものだろう。その海賊は、又、島の住民をも襲ったと云い伝えられている。・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・ ちょっと、郷里の家へ帰っているともう、スパイが、嗅ぎつけて、家のそばに張りこんでいる。出て歩けば尾行がついて来る。それが結婚のことで帰っていてもそうなのである。親爺の還暦の「お祝い」のことで帰っていてもそうなのである。嚊を貰って、嚊の・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。 茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人ずつその柱を・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・子供、子供と私は言うが、太郎や次郎はすでに郷里の農村のほうで思い思いに働いているし、三郎はまた三郎で、新しい友だち仲間の結びつきができて、思う道へと踏み出そうとしていた。それには友だちの一人と十五円ずつも出し合い、三十円ばかりの家を郊外のほ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・誰か、郷里のひとがいないかと、嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店の手代と女中が藪入りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、嘉七は、ウイス・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・山田さんが郷里へお帰りになりましたので、私共も心細く存じておりましたところ、昨年の暮に、大隅さんから直接、私どものほうへお便りがございまして、いろいろ都合もあるから、式は来年の四月まで待ってもらいたいという事で、私共もそれを信じて今まで待っ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・この匂いを嗅ぐと、少年時代に遊び歩いた郷里の北山の夏の日の記憶が、一度に爆発的に甦って来るのを感じる。 宿に落着いてから子供等と裏の山をあるいていると、鶯が鳴き郭公が呼ぶ。落葉松の林中には蝉時雨が降り、道端には草藤、ほたるぶくろ、ぎぼし・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
四十年ほど昔の話である。郷里の田舎に亀さんという十歳ぐらいの男の子があった。それが生まれてはじめて芝居というものを見せられたあとで、だれかからその演劇の第一印象をきかれた時に亀さんはこう答えた。「妙なばんばが出て来て、妙な・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・維新の後星巌の門人横山湖山が既に其姓を小野と改め近江の郷里より上京し、不忍池畔に一楼を構えて新に詩社を開いた。是明治五年壬申の夏である。湖山は維新の際国事に奔走した功により権弁事の職に挙げられたが姑くにして致仕し、其師星巌が風流の跡を慕って・・・ 永井荷風 「上野」
・・・梅雨が過ぎて盆芝居の興行も千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の明い寂寞が都会を占領する。 しかし自分は子供の時から、毎年の七、八月をば大概何処へも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れ・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫