・・・ 恒藤は又謹厳の士なり。酒色を好まず、出たらめを云わず、身を処するに清白なる事、僕などとは雲泥の差なり。同室同級の藤岡蔵六も、やはり謹厳の士なりしが、これは謹厳すぎる憾なきにあらず。「待合のフンクティオネンは何だね?」などと屡僕を困らせ・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・まことに茶道は最も遜譲の徳を貴び、かつは豪奢の風を制するを以て、いやしくもこの道を解すれば、おのれを慎んで人に驕らず永く朋友の交誼を保たしめ、また酒色に耽りて一身を誤り一家を破るの憂いも無く、このゆえに月卿雲客または武将の志高き者は挙ってこ・・・ 太宰治 「不審庵」
森先生の渋江抽斎の伝を読んで、抽斎の一子優善なるものがその友と相謀って父の蔵書を持ち出し、酒色の資となす記事に及んだ時、わたしは自らわが過去を顧みて慚悔の念に堪えなかった。 天保の世に抽斎の子のなした所は、明治の末にわたしの為した・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・実業家などがむずかしい相談をするのにかえって見当違の待合などで落合って要領を得ているのも、全く酒色という人間の窮屈を融かし合う機械の具った場所で、その影響の下に、角の取れた同情のある人間らしい心持で相互に所置ができるからだろうと思います。現・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・その頃より六郎酒色に酖りて、木村氏に借銭払わすること屡々なり。ややありて旅費を求めてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは、任所へゆきし一瀬が跡追いてゆかんに、旅費なければこれを獲ぬとてなりけり。酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかく繕・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。「馬車はまだかの?」「先刻出ましたぞ。」 答えたのはその家の主婦である。「出たかの・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫