・・・私は一合も飲まぬうちに酔うていた。「あんたはまだ坊ン坊ンだ。女が皆同じに見えちゃ良い小説が書けっこありませんよ。石コロもあれば、搗き立ての餅もあります」日頃の主人に似合わぬ冗談口だった。 その時、トンビを着て茶色のソフトを被った眼の・・・ 織田作之助 「世相」
・・・泥酔した経験はないし、酔いたいと思ったこともない。酔うほどには飲めないのだ。 してみれば、私が身を亡ぼすのは、酒や女や博奕ではなく、やはり煙草かも知れない。 父は酒を飲んだが、煙草を吸わなかった。私は酒は飲まないが、煙草を吸う。父が・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ額に深き二条の皺寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。「源が歌う声冴えまさりつ。かくて若き夫婦の幸しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子の幸助七歳の時、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・自分は可い心持に酔うている。酔うてはいるもののどうも孤独の感に堪えない。要するに自分は孤独である。 人の一生は何の為だろう。自分は哲学者でも宗教家でもないから深い理窟は知らないが、自分の今、今という今感ずるところは唯だ儚さだけである。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 今まで喜びに満されていたのに引換えて、大した出来ごとではないが善いことがあったようにも思われないからかして、主人は快く酔うていたがせっかくの酔も興も醒めてしまったように、いかにも残念らしく猪口の欠けを拾ってかれこれと継ぎ合せて見ていた・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・行義よくては成りがたいがこの辺の辻占淡路島通う千鳥の幾夜となく音ずるるにあなたのお手はと逆寄せの当坐の謎俊雄は至極御同意なれど経験なければまだまだ心怯れて宝の山へ入りながらその手を空しくそっと引き退け酔うでもなく眠るでもなくただじゃらくらと・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・おげんは何がなしに愉快な、酔うような心持になって来た。弟も弟の子供達も自分を待ちうけていてくれるように思われて来た。昂奮のあまり、おげんは俥の上で楽しく首を振って、何か謡曲の一ふしも歌って見る気に成った。こういう時にきまりで胸に浮んで来る文・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ などと、数学博士も、酔うと、いくらかいやらしくなります。少し、しつこく女の子を、からかいすぎたので、とうとう博士は、女の子の辻占を買わなければならない仕儀にたちいたりました。博士は、もともと迷信を信じません。けれども今夜は、先刻のラジオの・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・い二合徳利がつけてあって、好意を無にするのもどうかと思い、私は大急ぎで飲むのでありますが、何せ醸造元から直接持って来て居るお酒なので、水など割ってある筈は無し、頗る純粋度が高く、普通のお酒の五合分位に酔うのでした。佐吉さんは自分の家のお酒は・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 近在の人らしい両親に連れられた十歳くらいの水兵服の女の子が車に酔うて何度ももどしたりして苦しそうであるが、苦しいともいわずに大人しく我慢しているのが可哀相であった。白骨温泉へ行くのだそうで沢渡で下りた。子供も助かったであろうが自分もほ・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫